spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

意義のある人生

 

生かされている命と生きている命

 今日は人生いかに生くべきか、なんのために生きているのか、という疑問に答えてみましょう。

 人間は肉体のほうからみると、’生きている’のではないのです。’生かされている’のです。生命自体、いのちそのものからみると’生きている’のです。これをハッキリ区別しないと、哲学的なな苦悶におちいって、しまいに死んでしまったり、生きている価値がなくなって、みずからいのちを絶ったりする人が随分出てくるわけです。

 生かされている’いのち’と、生きている’いのち’がわからなくて、自分で生きていると思うから間違いが出来るのです。命というものには、大生命(宗教的にいえば神様)があって、大生命のいのちが個別に分かれて、各人間に分かれ、あるいは植物、あるいは動物といろんな形に分かれているわけです。それで人間の場合には、私がいつもいうように直毘(なおび)、直霊(ちょくれい)として大神様のみ心奥深くに、七つの働きに分かれて一番始めに存在したわけです。そして直霊の分霊として各個別の人間が出来たわけです。

 ですからあくまでも人間は肉体ではなく、形ではなくて、いのちそのまま、生命エネルギーそのものがいろんな角度に分かれ、各種に分かれて、一人一人の人間が出来ているわけです。だから人間の本体というのは何かというと、いのちそのもの、生命エネルギーそのものであって、肉体というものはいのちの力によって作られたもの、被造物なのです。肉体はだからいのちの力そのもので生きているのであって、肉体自身で生きているのではないのです。これは誰でもわかりますね。

 いのちがなくなって死んでしまった状態になれば、肉体がそこにあっても、肉体はどうしようもない。肉体は無に等しいです。いのちが入ると肉体が動く。ちょうど、動力があって、ゼンマイをかけておけば動く、動力がなくなってしまえば動かなくなってしまう機械と同じであって、肉体は機械と同じです。ですから私は器であるとか、場であるとか、いうように説明しますね。いのちの一つの働きの場が肉体なのです。

 皆さんが自分だと思っているもの、何の誰れ子、何んの誰兵衛なんだと主張している肉体というものは、実は自分で生きているのではなくて、生かされている。

 赤ちゃんとして男の子に生まれてくる。女の子に生まれてくる。ということは、肉体人間側としてはどうすることも出来ないことです。男の子は男の子、女の子は女の子、私は男の子に生まれればよかった、といっても女の子は女の子。私は女の子に生まれればよかったといっても男の子は男の子。これは自分ではどうしようもありません。絶体絶命のもの。

 そのように、肉体側からいくと、絶体絶命のもの、仕方ないということがあるんです。人間の世界では自分でどうにもならない、仕方のないことがあるんだということをハッキリわからないと、自分でどうにかしなければいけない、自分でやるやるといっていて、どうにもならなくなる場合があるのだから、その時自分を苦しめいじめてしまうことになる。

 肉体はあくまで生かされているのです。神様、守護霊守護神の力によって生かされている。肉体は生かされるままに素直に生きていれば、完全なる神様のみ心のまま、大生命の理想とするところの人間がそのまま生きていくわけです。

 

いのちの源を忘れた人間

 ところがみんないのちの元を忘れてしまったので、肉体の自分という「我(が)」というものが出てくるわけです。これがオレなんだ、と肉体がオレなんだと思うわけですね。自分の思うことは自分なんだから、自分の運命は自分で始末する、とか、人が忠告したって、それは自分で考えることなんだ、自分なんだ、と決めている。ひどいのになると、神も仏もそんなものあるもんか、人間があるだけだ、自分があるだけだという。

 自分があるだけだといったって、肉体の自分なんていうものは自分で作ったのではないんですからね。自分で作ったものではないものを、自分のものだ、誰れの厄介になるものか、オレの運命はオレが始末をつける、オレのことはオレがやるんだ、とこういう。いかにも勇ましそうに聞こえるけれども、それならもう一遍やり直して、自分の力で初めっから生まれてこい。自分の力で生まれてこられたら、サア自分のことは自分なんだから、自分で全部やって全部自分のままにしたらいい。

 ところが実際問題として、自分自分という前に、目に見える力として両親のエネルギーによって生まれてくる。目に見えない姿としては大生命の力として、生命エネルギーいわゆる神様の力として生まれてくる、それを度外視しちゃって、一番の出発点を忘れちゃって、オレなんだ、オレがやるんだ、オレがオレがとなんでもこの形の肉体の自分という、五尺何寸の自分を後生大事に、これほど大事なものはないような恰好で、自分の主張、自分の権限はこうだといっている。大きな目からみればおかしくて、おかしくてしょうがない。

 自分、自分と思っている人には、自分の運命もわからないし、自分の生きる目的もわからないわけです。人間の目的、人生の目的がわかるためには、一度肉体の自分というものを捨てないとわからないんですね。肉体で自分が生きているんだ、自分の運命は肉体の自分が作るんだ、自分なんだ自分なんだという自我を一遍もとの世界、赤ちゃんの前の世界、未生の世界、生まれない前の世界に帰さないと、本当の自分というものがわからない。小さな肉体の生かされている自分だけしかわからないのです。だから、唯物論の人が、人生いかに生くべきかと考えたって、唯物論の人には本当の人間の目的なんかわかりっこない。人生の目的も人類の意義もわからないんです。

 

人間はいかに生きるべきか

 要するに、神様のみ心にすべて返してしまって、そこから改めていのちを頂き直して、これは神様から預かったいのち、この神様から頂いた体を、いかに人類のために、もっといいかえれば神様のみ心のために生きていくかということです。

  神様というのは大生命だし、一なるものです。数十億の人類に分かれていますけれど、元をずーっと探ってゆくと、大生命のなかで全く一つなんです。大生命のなかでは韓国人も日本人もアメリカ人もインド人も、そんなものはない。みんなもとをただせば一つのいのちなんです。それで似通った波の人たちが集まって何々民族、何々民族となっているんです。

 そして、日本人は日本人で一つであり、アメリカ人はアメリカ人で一つであるわけですが、ところがアメリカはアメリカを守るために、日本は日本を守るために、中国人は中国を守るために、自民族を守るためにというんで、戦争が起こるわけです。しかし、すでにそういう時代ではないのです。それは過去のこと、過去の習慣のままに進んでいってしまっては、自民族を守るどころか、地球人類を自分の手で亡ぼして(ほろぼして)しまいかねない。

 やっぱりどうしても、人間は大神様のみ心のなかで一つのものなのだ、と知らなければいけません。神様のみ心は目には見えない。相対ではなく絶対であって、宇宙に遍満している。それを人間が人類として形に現わして、各々の場で自分の天命を果たしてゆくのです。天命を果たしてゆくようになると、自然にみんながつながり合い、助け合うことになって、神のみ心である大調和世界をこの物質の世界に実現することになるわけです。大調和の、完全な世界をこの地球界に実現してゆくために、われわれが生まれているわけです。誰れも彼もその目的のために生まれてきているわけです。

 人間の生きている目的というのは、大生命の理念といいますか、神のみ心をこの地球界に現わすために、自分たちの一人一人が生きているんであって、ただ単に自分の肉体生活の満足を得るためにだけ生まれているんじゃない。人間各自が自分の肉体生活の満足だけを得るために生きているとするならば、その人はやがて破滅する。自分の肉体的な自我を満足させるために、権威と地位を利用して、自分の勝手放題なことをした人は、最後には刑法にさらされて恥かしい目を見て、悲惨な姿になりますね。おごり高ぶった実業家、おごり高ぶった政治家、おごり高ぶった宗教家、おごり高ぶっている知識人、等々、おごり高ぶっている人たちはみんな末路が悪いです。おごる平家は久しからずです。

 やはり、自分たちの肉体の満足を得るため、自分一家族のため、自分の集団のため、自分の国のためだけを考えてやった個人、あるいは集団、あるいは国家というものは亡びます。自然の運行がそうなっている。

 なぜならば、神様のみ心というものは、完全の調和、全体の調和というものを考えて作られているんであって、その調和を破って自分だけの自我をだせば、出る釘は打たれるではないけれど、邪魔だから神様のほうから光が流れてくると、それが崩れてゆくのです。どんなに隠しおおうとしても、間違ったことをしていたら、必ずそこに現われてくる、いわゆる消えてゆく姿になって、間違ったものは滅亡してゆくわけです。

 人間はいかに生くべきか、というこの課題に対する答は、いかに自分が人類の調和のために役立っているか、人類の調和のためにどれだけ自分が役立つような生き方が出来るか、生き方をしなければならないか、ということになります。

 

意義のある生き方

 そこで端的にいうならば、人間は人類の大調和のために、世界平和のために働かなければだめだ。そうしなければ生きている意義はないんだ。各自は神のみ心から分かれ分かれになって、この地球界に平和を築くためにわれわれが生まれかわり、死にかわりしてここに現われて生きているんだ。これがわれわれ人類の天命なのです。その線に向かって働いてゆけば、その人は立派な人だし、意義ある生き方をしている人なんです。

 ですから、頭のなかでガチャガチャ、いかにあるべきか、人生とはなんぞやなんて深刻ぶってやっているよりは、少しでも一人の人のためにでも尽くせる、一人の人でも愛せる、誰れかのためになって生きる、ということがより必要だし、一番大切なのです。ふつうの家庭を持った人は妻のため、子どものために働いていればそれだけ ”いのち” が生きているわけです。しかし、妻のため子どものためにはかることが、他の利を損なうようではだめなのです。他のものをつぶして自分の家庭を立てるという形じゃいけません。収賄したりしていることは、どこかを汚しているわけです。国民の税金をむさぼり使っていたら、それは悪になります。そういうことはいけない。

 自分が正しく働いて、妻子のために非常に明るい生活をする、というのでしたら、これは家庭にしては、一番いいわけです。もっと簡単にいえば、人の迷惑にならないで、少しでも多くの人のためになる、多くの人の調和のために働ける、そういう生き方が一番立派な生き方です。

 それを大きくひろげてゆくと、世界人類が平和でありますように、という祈りの心になります。常にみんなの平和を願い、調和を願い、みんなが仲良くやってゆくことを願うような想いの人、祈り心の人は、おのずから人類のために尽くしている意義ある生き方をしているわけです。

 皆さんのように、世界平和の祈りをして日々過ごしていられる方々は、そのままで生きている意義があるわけです。八十、九十のあばあさんやおじいさんであろうと、四つの子どもであろうと、ベッドで寝たきりの病人であろうと、台所から離れられない主婦であろうとどんな人であろうと「世界人類が平和でありますように、みんなが幸せでありますように」という想いで生きている人は、そのまま人類のために働いている意義のある生き方をしているんだ、ということなのです。

 

『我を極めるー新しい人生観の発見 五井昌久』より抜粋

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