spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

神様の世界に入る

 

人間の実体は神界にある

 人間は神界にもいれば霊界にもいれば、幽界にも肉体界にも同時に住んでいるのです。この真理はなかなかわからないでしょうね。肉体にはこの五感の目しかありませんから、これに映るもの以外のことはわからない。

 ところが実際には、物を叩けば音がしますね。いろいろな音がする。この音には聞こえる音と聞こえない音とあるわけです。犬などに聞こえても人間には聞こえない音もあります。犬を呼ぶ笛がありますが、これを鳴らしますと、人間には聞こえないけれど、犬には聞こえる。そういう音のひびきが実際あります。

 色でも見えない色と見える色とがあります。そのように、科学の世界においても、見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないもの、というのがあるわけです。この見えるもの、聞こえるものというのはみんな波動なのです。波なんです。波が聞こえ、波が見える。テレビを見れば一番わかりますね。

 現在は、各家庭にテレビジョン受像機がありますね。放送局で放送するものが、何十里何百里離れていてもテレビに見えてくる。アメリカであったことでも見え聞こえてくる。何が見え、聞こえてくるかというと、波動が映ってくるわけです。音の波動、光の波動がマッチして映ってくる。実体はどこにあるかというと、テレビ局にある。

 それと同じように、人間の実体は神界にあるわけでして、それがだんだんと肉体界に映ってきているわけです。それでこの世の中は現し世(うつしよ)というのです。けれど肉体界に映る間に、いろんな階層があります。霊界にもたくさんの階層があります。幽界にもたくさんの階層があります。それらのいろいろな階層を通って肉体界に映ってゆくのです。だから真っ直ぐ映れば神様の姿がそのまま映ってくるのだけれども、人には前生(ぜんしょう)もあれば、前々生もあれば、ともかく過去世(かこせ)というものがあり、過去世でいろんなことをしておりますから、その蓄積されたものが幽界にもあるし霊界にもあるわけです。それが重なって映ってくるのです。

 初めはきれいな白光(びゃっこう)の光で、光が発せられているんだけれども、途中でだんだんいろんな色がつきまして、要するに業がつきまして、それが肉体界に来る。そうすると、神様もわからない、肉体の他にはなんにも感じないような肉体人間になってしまうわけなんです。そのままでいたんじゃ神様の世界はいつまでたってもわからないわけです。そこで一遍、元へ返さないと、本当の人間の姿がわからない。

 

徐々に空になる

 そういうことを聖者の皆さんは思いまして、お釈迦様は空(くう)になれ、といったわけです。空になってなんにも思うな、空っぽになると、初めて本当の仏の姿がわかるんだ、といいました。老子さんは、無為(むい)にしてなせ、何をしよう、どうしようこうしようと思うんじゃない、そういう小智才覚を捨てたところで、初めて本当の姿がわかるんだ、といっています。聖者は誰も彼もみんな、肉体の想念知識を捨てることを教えているわけですよ。

何故そうするかというと、やっぱり本体を現わすためには、現われている肉体のほうをまずきれいにしなければ、本当の姿が映らないからです。そこで空になれ、というんです。

 私は、空になれといっても、なかなか空になれない、あんまりむずかしすぎる、ということがわかった。私は想念停止という修行をして空になりました。空になったけれどさんざん苦労してなったんで、ふつうの家庭をもった人にはとても出来るものではない、というのがよくわかったわけ。一遍に空になるなんてむずかしいから空になるのも徐々になればいいから、それでは消えてゆく姿ということにしよう、ということになった。現われてくるあらゆる出来事、病気でも不幸でも災難でも、嫌な想いでも、それはみんな過去世において溜まった横の波が現われて、消えてゆこうとしているのだ。それで消えてゆく消えてゆくと、どんどん消してゆくと、しまいには本体の光だけ、光明波動だけが残るんだ、と教えるわけです。

光明波動を余計に現わすには、常に神様の中へ入っていなければだめだ、自分の想いがいつもいつも神様の中へ入っていれば、愛と調和の神様のみ心の中に入ってさえいれば、早く消えてゆく。従ってどんどん光が充満してくる。

 

神のみ心に波長を合わせる

 神様の中に入るといっても、掴みようがありませんね。それで神様の意志である、神様のみ心である地球の平和ということ、大調和ということ、大調和ということ、そういう調和の波の中に入れば、神様の波に入ったと同じだから、それに、神様のほうで、世界人類が平和であれ、とおっしゃっているんだから、こちらは、世界人類が平和でありますように、という気持ちで、神様のみ心の波長に合わせようというので、世界人類が平和でありますように、という言葉が出来たのです。

 だから、われわれが ”世界人類が平和でありますように” という時には、神様のみ心の中へ入っているわけです。しかもそれにつけ加えて、守護霊さん守護神さん有難うございます、神様有難うございます、という感謝の言葉があります。感謝の言葉をもって神様のみ心の中へ入っちゃうんです。そうすると天と地がつながるわけです。

 空になれとか、なんとかいわなくても、消えてゆく姿で世界人類が平和でありますように、と思っていると、知らない間に自分の想いが、神様のみ心と一つになってゆく。そうしますと、いくら横の波の過去世の因縁が現われてきても、現われどんどん消えてしまいますから、残るものは神のみ心がそこに残っている。そうすると個人の幸せもそこから生まれてくる。同時に世界の幸せもそこから生まれてくる。だからあまりとやかく理屈をいわないで、ただひたすらに”世界人類が平和でありますように”という想いで生きてさえいれば、いつの間にか自分も幸せになります。安心立命します。

 

安心立命が個人の最大の幸せ

 個人の一番の幸せというのは、お金があるのは現象的には幸せですけれども、安心立命するということです。どんなことがあっても恐ろしくない。どんなことがあっても心が乱れない。そういう境地になるのが一番いいわけです。

 どんなにお金があっても、病気になって、明日死ぬかもしれない、といったら、オドオドしますでしょ。だから一番いいのは、どんなことがあってもオドオドしない人間になることです。そうなるためには常に神様のみ心の中へ入っていなければならない。世界平和の祈りをやっていますと、いつの間にか神様が自分を包んで守ってくれている、という実感が出てくるんですよ。守られているという実感が出てくる。そうすると、自分が安心していつも悠々と生きられるようになるんですよ。

 自分の幸せがそこに生まれてくる、それと同時に、世界人類が平和でありますように、という人類愛のひびきが地球にふりまかれるわけです。人類の幸せに貢献することになります。それを大勢の人がやっていれば、知らない間に世界の波が、争いの波が平和の波へ変わってゆくわけです。祈る人が多くなればなるほど早くなるわけです。そういう運動をしているのは私どもの会が初めてです。

 

単純だが深い内容

 世界人類が平和でありますように、という当たり前な平凡な言葉を祈り言葉にしているのはどこにもない。頭を使いすぎて、他のいろんな祈り言葉をやるわけですよ。ところがこの世の中は、現われとしては単純な、有難うございます、と思うことが一番いい。感謝することが一番いい。ところがその有難うございますというような、当たり前の易しいことをやりたくないんですね。人間というのは、インテリになればなるほど、当たり前のことをやりたくない。なにかむずかしいことをいおうとする。

 むずかしいことを易しい表現に現わすことが出来れば、その人は達人です。文章にしても、うまい文章家は現わし方は易しく現わす。読んでいてもすぐわかるように、しかも内容が深くある。うまい短歌でも、詩でも、俳句でも、みなそうです。単純にして中味が深い。だから本当の宗教というものも、単純にみえるけれど、中味は深い。

 世界平和の祈りは単純そうにみえますけれども、中味がズーッと深いんです。この教えは深い深い中味なんだ、しかも易しく出来るんだ、ということを皆さんが念頭において、ひたすら世界平和一念で生きれば、否でも応でも幸せになります。もう理屈はいりませんね。理屈は消えてゆく姿です。

 

他力、自力も超える

 他力でやっていて、自由に自分がやることは矛盾しないか、という人がいましたが、初めっから神様から流れて分けられた命だから、他力といえば他力なんです。ところが自分がお祈りで神様の中に入ってしまうと、他力も自力もなくなっちゃうんですよ。自ずから動く、自分がやりたいと思う行ないと、神様がやらせたいと思う行ないとが全く一つになって、それで行なわれるようになるのです。ですから、やがては自分の思うまま、なすままに行うことが、すべて神のみ心になってゆくというようになるわけです。

 私でもそうです。やりたいと思うことは神様がやること、やりたくないと思うことは神様がやりたくないこと、そういうふうにズーッと何十年通ってきているわけです。皆さんもやがてそうなるわけです。そうなるためには、ひたすらなる世界平和の祈り、ひたすら祈りの中へ入ってゆく。それを根本にして、自由にやりたいことをやっているわけです。

 今までは玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、業と神意識とがまざっていたものが、だんだん神の意識だけで行なえるようになるんです。自然になるんです。わざとやる必要はありませんよ。これは神がやったことかしら、業かしら、なんてそんなことをやっていたら生きられません。業も神意識もありゃしません。そんなこと考えないで、世界平和の祈りを根本にして、やりたいことをどんどんやる。世界平和の祈りをしながら泥棒をするやつはないですからね。どうしたっていいほうになっていきます。

 世界平和の祈りを根本にして、自分の思うまま堂々と自由にやればいいんです。それで自分をだましてはいけませんよ。それぐらいいいや人間だからというのは、いわゆる業の人間ですから、消えてゆく姿にしなければいけません。自分をごまかさない。もし間違ったらゴメンナサイって、心の中で神様におわびして、それでやり直せばいい。これぐらい仕方がない、とかいって、自分をごまかすことが一番いけないことですよ。それでは絶対悟りになりませんからそのつもりで、どうぞひたすらに世界平和の祈りをおやりください。

 

五井昌久『 内なる自分を開く - 本心開発メソッド 』より抜粋

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白光真宏会 公式ホームページ

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