spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

運命を恐れるな

 

不安の気持をなくすには

 人間は確かに自分達の運命を恐れすぎています。悪いことがありはしないか、今の幸せが果たしてつづいてゆくだろうか、というように、いつもいつも、運命が悪くなることを恐れきっている人さえあります。

 一般の人はそれほど表面だって、恐れの気持を表現してはいませんが、やはり何かと、不安の気持が胸をかすめます。近頃の地震さわぎなどは、科学的な説明のもとに、近々に大地震がありそうだと学者にいわれると、そのいろいろの用心をする心構えより先に、恐怖の気持のほうが先立って、心が不安定になり、夜もおちおち寝られないという人が出てきます。自分の生死は勿論心配だし、生活が崩れてしまうのも心配なのです。

 もっとも現在、都会が大地震になったら、それこそ大変な悲惨事になります。だからといって、まだ来てもいない地震のために、心がおびえて、日夜不安な生活を送っているなどは、愚かしいことです。大地震などないかもしれないのです。しかし不安というものは根深いもので「嫌であろうと、来るべき運命は来るし、来ない運命は来ないのです」と誰かにきつくいわれたとしても、それはそうでしょうが、やはり死ぬのはこわいし、不幸災難は嫌ですよ、と声を揃えていうことでしょう。それほど人々は未来の運命に心がおびえているのです。

 つねに人々の心に去来する死を頂点にした、不幸災難の到来を恐れる気持を、いったいどうしたらなくすことが出来るのでしょう。

 それはなんといっても、真の宗教信仰の道より他に道はないと思います。真の宗教の道とは、神と人間との関係をはっきりとわからせ、神と人間との一体化をはからせる道です。神は愛であって、つねに守護神、守護霊となって、人々を守りつづけておられこそすれ、大生命である神さまが自身の分生命(わけいのち)である小生命の人間を、いじめさいなむはずがありません。人間の不幸災難は、神さまがつくられるのではなく、人間自体の過去世からの誤った生き方の答として、そこに現われてくるのだから、悪い答の出ないうちに、大調和そのものである、神さまのみ心の中に、自分の運命ごと飛びこんでしまいなさい、と私はいうのです。

 

生かされているということ

 人間のはじまりから、よくよく考えてごらんなさい。一人の赤ん坊として生まれてくるのも、周囲の様々な生かす力(例えば太陽や空気や水や食物など)によって生かされ、育まれてゆくので、何一つ、肉体人間としての自己の力ではありません。すべて肉体人間の側からみれば、他動的な力によって生かされているのです。

 生かされ、育まれてゆくのが他動的であるのなら、死ぬことも他動的であることは、当然なことといえます。一口にいえば、生くるも死ぬるも、肉体人間の運命は、外側からみれば、すべて他動的なのです。どんな人でも、肉体的意識で赤ん坊に生まれ出てくることはできません。生まれ出てからはじめて、肉体人間としての意識が出てくるので、赤ん坊として生まれてくるまでは、自分という肉体意識はないのです。

 この世に一人の人間として生み出してくれたものは、肉体的には父母とみえながらも、実は、父母の体に働いている生命意識、つまり神さまのみ心なのです。誰一人として、神のみ心の働きなくして、この世に肉体人間として生まれ出てくる者はいないのです。とすると、生まれるはじめから神の力で生かされ、いろいろとこの世の仕事を果して、また元の世界に還ってゆくわけで、一度に源の世界に還れない人が大半ですが、なんたびか様々な世界に生まれ変りして、やがて神のみ心の奥深くに還ってゆくわけです。

 この一つ一つの生まれ変りを、肉体人間は死という言葉で表現しているので、肉体人間の意識で、死を自由にすることは出来ません。死の底には、生と同じように、神のみ心が働いているのであります。

 ただ私は、肉体人間の運命は外側からみれば、他動的に運ばれてゆくようにみえますけれど、内側、つまり霊としての人間からみれば、守護の神霊との一体化も含めて、人としての本体、本心から、肉体人間としての自己をつくりあげているのでありまして、本体の自分が守護の神霊と協力して、肉体人間をそこに生み育ててゆく、ということになるのだ、といいたいのです。

 ところが、神霊の力によって、肉体人間として誕生し、生長してゆきますと、肉体人間としての自己意識が育ってまいりまして、神霊側の意図している生き方に反する生き方を始めてしまうのです。そのギャップが、病気や不幸災難として、肉体人間の生活に現われてくるのです。

 ですから、人間はつねに神霊である自己のほうに想いを向けて、神さまのみ心のままに自己の生活をつくっていけば、不幸災難のない調和した生き方ができるのであります。

 ところが人間には習慣性というものがありまして、肉体という物質波動の世界の生き方になれてきてしまいますと、本源の神霊のひびきを忘れてしまい、肉体だけが人の生命の働いている場であるように思ってしまうのです。

 そうなりますと、肉体の頭脳というもので、すべてを考えて、この世を渡ってゆかなければならなくなり、神霊の世界からの智慧能力というものがあることを忘れ果てて、大宇宙の調和したひびきから外れた、小さく孤立した狭い範疇で生きてゆくことになってしまうのです。

 人間が素直に生きてゆけば無事に生活してゆけるように、人間に必要な要素を、外面的にも内面的にもたくさんつくっておいて下さっている神の愛というものよりも、肉体人間の智慧や知識を重要なものと思いこんでしまったのが、現在の人間なのです。想いの習慣性がエスカレート(拡大)して人間はだいたい唯物的になってしまいました。ちょっと肉体の内臓や血管のことを考えてみれば、人間を生かしているのは、物質以前のなんらかの力だということがすぐわかるのですが、内臓や血管の仕組のことだけは考えるが、どうして血ができ、どうして肺臓や心臓ができたのか、こんな微妙な働きをする大脳や小脳をいったい誰がつくったのか、肉体の人間がつくったのでないことだけはすぐわかります。

 

神との一体化

 ですから、肉体人間以前の偉大な力の存在を何人(なんぴと)といえど否定することはできないのですのに、肉体に付着している習慣の想い、つまり業の想いは、この偉大な力を神という存在とは受け取らずに、ただ自然の動きによってできた、というように解釈して、物質人間の地位を高めようとするのであります。

 こういう想いは神を信仰する人のなかにも、少しづつ残っていまして、自己の生活に、不安や恐怖が時折起こるのです。それは神だけを自己の心に住まわせないで、肉体人間観という長い間の習慣の想いに把われているからなのであります。

 人間の運命に対し不安や恐怖をもつのは、人間は神の生命を生きているんだ、神によって生かされているんだ、という、神との一体観をもっていないからなので、神との一体観というより、神さまがすべてをみていて下さるんだ、という想いを根本にして、あとはその場その時々を真剣に生きていればよいのであります。

 神と肉体人間とを離して考えた時、そこに不安や恐怖が現われてくるのですから、そこで神との一体観になる、祈り心が必要になってくるのです。人間は肉体ではない、神さまの分生命(わけいのち)なのだ、という真理をいつもいつも心に念じるように想って、習慣の想いのようにしてしまうとよいのです。そうしているうちに肉体人間という感じから、神によって生かされている人間という感じになってきます。そうなればしめたものです。

 神さまは愛なのだ、ということ。神様によって生かされているんだ、ということ。この二つの真理を知っていることは、人間が生活していく上に非常に大きな力になります。そして神様のみ心である愛と調和と誠実の行為をしてゆけば、その人にとって、恐ろしいものも、不安の想いもないのであります。

 そしてこの生活の潤滑油として、祈りをすればよいのです。祈ることは、つねに神のみ心の中に住んでいることになりますので、神我一体の行といえば、真実の祈りであると答えてもよいくらいのものです。

 自己の運命を恐れる想いがあったら、その想いごと、私のいう世界平和の祈りの中に入れてゆけば、運命を恐れる気持が次第に消えて、運命を神にゆだねる、という気持に変ってゆくのであります。

 

祈りと神さまの在り方について

 ここでまた、世界平和の祈りの話をいたしますが、世界平和の祈りは、単にこの地球界だけの調和の祈りではなく、大宇宙そのものの調和を祈る祈りなのです。もっとも大宇宙の調和は神さまのみ心そのものの現れでありますので、そのままで調和しているわけなのですが、地球なら地球の人類というものが、神さまの生命エネルギーを、神のみ心を離れた、肉体人間としての想念で自分たちの気まま勝手に使いはじめ、今日にいたる不幸災難を地球世界に現出させているわけです。その神のみ心と人間の想いとの距離(へだたり)が業というわけで、この業想念を消し去ってしまわなければ、神様の大調和のみ心が完全な現れ方をするわけがありません。

 祈りというのは、神さまのみ心のなかに、神さまと離れている人間の想念波動を入れきって、神と人間との心の距離を取りのぞく方法なのです。世界平和の祈りは、その最も具体的な祈り言によって現わされたもので、祈りそのもののなかで、同時に大調和の神のみ心をそのままこの地球に現わしている祈りなのです。

 神さまの在り方をちょっと説明してみましょう。キリスト教の教え方などでは、神さまを一神として教えておりますが、実は、神さまは一方ではすべてのすべてであり、生命の根源としての創造主、絶対者である大宇宙神として存在しながら、一方守護神として、あらゆる星々を加護している宇宙神、それから一つ一つの星、地球なら、地球の守りとしての守護神、もう少し狭い範囲で民族を守る民族神、それに個人個人を守る守護神、というように様々な場で働いていらっしゃるのです。

 私はその他に、守護神によってすっかり浄められた祖先の古い霊魂(みたま)を守護霊と呼び、その守護霊がさらに高められた守護神のことも説いているわけです。これを身近なものから系統だって申しますと、個人専属の守護霊さま守護神さま(拙著「神と人間」参照)と、世界平和の祈りの中でつねにその加護への感謝をささげている守護の神霊から、国家民族、星々の守護神、ずっと奥へ伝わって、大宇宙神にまでわれわれの想念は順次通じてゆくのであります。

 現在では宇宙の神々の地球救済の働きが、世界平和の祈りに同化して、われわれの大きな力となっているのであります。ですから、世界平和の祈りをするところには、今まで書いてきた守護の神霊のすべての力が働くことになるわけで、世界平和の祈りは、絶大な光明力を持っていることになるのです。

 みなさんは、ご自分の生活に不安をもったり、運命を恐れたりすることはありません。日々瞬々世界平和の祈りを祈りつづけてゆきさえすれば、あなた自体がいつの間にか光明化し、未来に来たるべき悪い運命もおのずと消え去ってゆくものであります。守護の神霊方がその光明で消し去って下さるのです。

 肉体人間の力で、なんとかなるさ、と自分自身の意志力をふりしぼって生きてゆくのが、勇気ある生き方に思えましょうが、大宇宙の法則をしらずに、盲めっぽうに走ってみても決して運命は改善されません。肉体人間の知恵能力だけでは、どうにもならないのが、人間の運命なのです。なぜかといいますと、現在現われている運命は、今、創ったものではなく、過去(世)においてその人が想ったり行ったりした結果が現われているものだからなのです。仏教的にいえば、過去世からの因縁因果ということになります。そのようにいったん運命として幽界にできあがっているものは、どんなに肉体的に知恵能力をふるってみても、どうにもできないものでありまして、それはちょうど幽霊を相手に、突いても叩いてもどうにもならないというのと同じことなのです。

 そこでどんなに肉体的に知恵や知識のある人でも、腕力のある人でも、肉体的に考えたのでは、運命の改善ができないことはおわかりになったことと思います。それならどうしたらよいかということになります。これからが宗教的な祈りの必要場面となるのです。

 

人間は多重層の波動体

 人間には、私がつねに申しておりますように、肉体のほかに幽体、霊体、神体というように幾つものボディがあり、幾つもの階層があり、肉体身をまといながらも、各ボディが各階層で働いているのです。ここのところがふつうの人には理解できないところでしょうが、私のほかに、どこの階層も実際に知っている人がこの地球にも大分存在しているのですから、ひとまずそんなことがあるのかなあと、半信半疑でもよいから、つづいて私の話をきいて下さい。

 みなさんは、この人間の肉体を固まった固形物のように思っていらっしゃるでしょうが、人間の目にそう見えるだけであって、実は原子や微粒子の調和によって形造られているもので、大半は、波動的空間なのです。それはあたかも、星々と大空のようなものです。その波動の世界が各階層にまたがってあるので、実をいうと、この波動の一番微妙な世界が人の本体の世界、いいかえれば神界なのです。そして次第に階層の下ったところに物質界があって、肉体人間が存在しているわけです。ですから、人の本体の世界は微妙な光明波動の世界であり、肉体界は粗い物質波動の世界なのであります。

 その粗い波動の遅鈍な物質世界に住む人間だけが、唯一の人間であるような錯覚におちいっているのが、長い間物質界に住み、物質界の習慣になれきってしまった人間なのです。そういう習慣の想いの波のなかから、神界霊界の話をきくと、奇異な感じを受けたりするのです。しかし真理は真理として、そのまま語らなければなりませんので、私は唯物論者の嘲笑をつねに受けながら、今日まで真理を伝えつづけてきているのです。

 

運命の改善の方法

 人間は、釈尊老子のいうように、肉体人間観ではもう今日以上の進化はしないのです。そこで釈尊の空(くう)や、老子の無為にいたる道を私は日常茶飯事の祈りの生活のなかから多くの人々に体得できるように働きかけているのです。未来に起こるであろう不幸災難を予測して、恐れや不安をもつのは、はじめのほうで申し上げた通り、肉体人間だけを自分だと思っている迷信によるのと、運命改善の方法を全く知らない無知によるのです。

 へんな宗教のおどかしや、宗教にまつわる様々な常識はずれの事柄を、まともに信じて悩んでいる迷信も、物質世界だけに人間が生きていると思っている想いも、ともに真理の世界からみれば迷信なのです。

 姓名学をはじめ様々な運命学がありまして、かなりの的中率を示していますが、これは、運命が過去世からの想念行為によってできあがっているものであることを証明している、ということに他ならないのです。こうした運命を改善するのは、肉体的な自己を捨てきって、神霊の世界の自分にならなければならないのです。

 みなさんはきっと、なんてむずかしいことをいう、われわれにとてもできっこない、とおっしゃるでしょう。それはそうでしょうが、肉体の自分自身でそれをやりとげようとしても、とても無理なことです。そこに祈りの重要性があるのです。祈りがなければ、とても運命改善はできないのです。そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りを説いているのです。

 消えてゆく姿というのは、この世に現われているすべての事件事柄は、過去世の因縁因果として現われてきたもので、そうした事件事柄はそういう事柄の要素を含んでいて、その人あるいはその集団の運命として現われてきたわけで、その過去世の因縁は、その果をはたして消えてゆくことになるのです。

 そういう真理を知らない人は、この事件事柄が自己や自己の集団にとって不利益であったり、不都合であったり、悲惨なことであったりすると、いつまでもその事件事柄に想いを把われていて、せっかく過去世の因縁を果して消え去ろうとする、因縁波動を再び、運命の渦の中に押しこんでしまうのです。

 それでは、いつまでたってもその個人もその集団も、運命を改善するわけにはいかないのです。私の消えてゆく姿の教えは、ここのところで重要な役目を果すのであります。そのままいつまでも、事件事柄に把われていたのでは、どうにもならない運命を、それはすべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまった時に、その人あるいはその集団の運命は、過去世の因縁をはなれた神のみ心そのものを現わし得る本心そのものの人、集団として、生活してゆくことができるようになるのです。

 なぜかと申しますと、事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、この世の肉体世界、三界(肉体界、幽界、霊界の下層)を超越することができず、いつまでも三界を経巡って(へめぐって)いることになり、運命の波から消え去ってゆかないのです。

 要は、消えてゆく姿として祈りとともに、神さまのみ心の中で消し去ってもらうことが必要なので、そうすれば、現われた過去世の因縁は、そこで神の光明の世界平和の祈りのなかで消え去り、その人あるいはその集団の運命は、神の光明で満たされるのであります。

 

親まかせの幼児のような生き方を

 世界平和を祈っている時、その人はすでに肉体身の人間ではなく、神界に昇っている人なのであります。人間はなんども申しますように、神の分生命(わけいのち)なのです。実際は何をしなくとも神さまにそのまま通じている生命(いのち)なのです。それを素直に通じさせなくしたのが、人間の業想念、つまり神と全然別個の小智才覚で、この世の運行をはかろうとしたからなのです。

 そこで、その小智才覚の意識を、神意識に還元させるために、祈りがあるというふうに考えてもよいのです。なんにしても、人間は神様のみ心によって、生かされつづけているのだから、明るく和やかに、その日、その日を感謝して生活してゆけばよいのですから、あまり物事を複雑にむずかしく考えず、幼な児のような親まかせの生き方をすることが大事なのです。人間の親は、先ほどから申しておりますように、神さまなのです。古代のあらゆる聖者の根本の教えは、すべて人間の業想念を消滅して、神仏と一体化する方法を教えているので、私は現代における最もやさしい方法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りを提唱しているわけなのであります。

 私たちは体にテープレコーダーをつけて生活しているのと同じなのです。私たちの一つの想いも、一つの言葉も、一挙手一投足もみな記録されているのであります。もし、その記録されたものが自己の運命と現われては不幸であると思うならば、その録音はよいと思う録音にかえなければなりません。そこでたゆみなき世界平和の祈りの大光明を録音し、今までの不幸災難の原因である業想念を消し去り、断ち切ってしまうのです。

 みなさんはこのことを信じて、どうぞ日々の実行にうつしてみて下さい。必ず運命を恐れる気持ちがなくなります。運命を改善することができるのです。

 

 

五井昌久 『 運命を恐れるな 』より抜粋

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自分をごまかさない

 

肉体人間はみな凡夫

 この世の中には矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)したことがたくさんあります。民族がたくさん分かれている。言葉が違う。肌の色が違う。言葉が違うということは喧嘩の原因になるだろうし、肌の色が違うということは、差別の原因になります。民族が分かれているということが、お互いに自分たちの民族を守ろうとする意識になって、自己を防衛するようになっている。

 動物たちでも、はじめからお互いに食べあわなきゃ生きられない。海の魚や小さな虫みたいなものから、大きな動物まで、すべてお互いが相手を食べあって生きています。弱肉強食の世界といいます。弱いものが強いものに食べられて生きている。

 どうして動物同志、生物同志が食べあわなければ生きていけないような世の中に、地球は出来ているのか。人間でもそうですね。どんないい人、特別な人は別だけれど、ふつう一般から少しぐらいよくったって、あるいはかなりよくったって、やっぱり自分が主です。自分のことをまず守りたい。自分のことはさておいても自分の子供のことは守りたい。

 隣の娘が病気したって、そんなに驚きやしません。「ああ気の毒に」隣の人が死にそうで「ああ気の毒に、ほんとうに」とは言います。隣りの人ならまだしも、隣りをおいたズーッと向うの名前を知らない人だったら、別に何でもない。

 ところが自分の娘だと、足を折ったなんていうと、いのちにかかわりなくても、大変だ大変だ、と真剣になるでしょ。自分の子供がちょっとけがをしただけでも、一生懸命になります。親がそうとう偉い人でも、自分のことになりるとそうなる。そんなもんですよ。

 私だってそうですよ。うちの会の人たちが病気になったら、病気になったって心配します。ほかの会の人が病気になっても、世界平和の祈りの中で祈ってはいるけれど、それは現象的にはなんにも関係ない。「死んだ?誰?ああそう」瞬間的にお祈りはするが、直接心の痛みは少ない。うちに集っている人たちは自分の子供みたいに可愛いくて、みんなが無事で、と第一番に思います。世界人類が平和で……と思うけどもサ、それは大きな話であって、大きくは世界平和でみんなが平和にならなくちゃいけないと思うけども、まず現実的な問題とすれば、うちの人たちが無事で、と思います。

 汽車が転覆した、うちの人はいないかな?いない、ああよかった。それから死んだ人やけがをした人のためにお気の毒に、と祈る。正直にいえばそうなのです。

 自分に関係ある人が死んだり、けがしたりすることが平気で、それで全然関係のない他の人が助かったほうがうれしい、なんていう人はいないんです。人間はそう出来ていないんです。神様の心は、近きより遠きに及ぼせ、で自分に近く、体も心も近くに寄っている人に、とても愛情を感じるものです。離れているものに愛情は感じません。体が離れていても、心が離れていなければ愛情は感じます。結局、自分の身内だとか、自分の同志というものには非常に愛情を感じ、みんな無事であればいい、と思います。

 たとえばロサンゼルスに地震があった。うちの人たちは大丈夫か、とまず思う。われながらいやんなっちゃうと思う。他の人も気になります。ああ気の毒だな、と思うけども、気の毒だという想い方が違うんですよ。自分につながっている人は、気の毒と思って胸にくるでしょ。

 どうしてそういうふうに出来ているのか、ということが問題なんです。 

 したがって、自分の民族、日本なら日本民族のことが一番先に思われるでしょう。誰も彼も日本に生まれている以上は、日本の運命が幸せでありますように、とまず思います。はじめアメリカが幸せになって、その次に日本で結構です。なんて誰もそんなこと言いやしません。それはアメリカ人も同じ、アメリカが先に幸せになることを望んでいる。それがいいとか悪いとかの問題じゃなくて、そうなるんですよね。

 

肉体人間はほんのちょっぴりの表われ

 そうすると、なぜ神様がはじめっからそういうようなつまらない人間を作ったのか、と思うでしょう。神様は全智全能、オールマイティなのに、どうしてこういう不完全な人間を作ったのか。人間ばかりではなく生物全部です。どうしてでしょう?

 実は神様のみ心の現われとしては、この肉体というのは、ほんの一部なんです。

 波長でいえば、肉体の波長ばかりでなく、一番微妙な波動を一とすれば、一の波動も、二の波動も三の波動も四、五、六、七の波動もあるわけです。だから人間としてそこに現われている肉体、あるいは犬なら犬として現われているボディは、単なる一番外側の現われであって、その奥にズーッと肉体として現われるまでの、現われがあるのです。

 氷山があります。海面の上に現われているのは、その氷山のほんの一部分で、海面の下にほとんど隠れているわけですね。そういうふうに、神体から霊体、霊体から幽体、というまでには、いろんな階層があり、数えあげれば何百層あるかわからない。そういう階層を通って肉体の人間が現われている。肉体の犬が現われ、肉体のライオンが現われているわけです。人間と他の動物とはちょっと違いますが。

 肉体のライオンは他の草食動物を喰うかもしれない。肉体の人間のほうはいがみあうかもしれない。しかし、根源にもどった人間の霊体、身体はいがみあっていないんです。大調和しているんです。動物も大調和しているんです。聖書にもチャンと書いてありますように、ライオンと羊はたわむれて遊んでいるんです。それが肉体界に現われた時にはゆがんじゃっているんです。

 どうしてゆがんでいるかというと、霊波動というものはいつも言うけれど、微妙な波動なんです。しかし、波動は粗くしなきゃ目に見えません。要するに、波動が細かいから目に見えないんです。波動が粗くなれば目に見えてくる。またうんと粗くなれば目に見えなくなる。音でもそうですよ。聴こえる範囲というのがありまして、波長の大きいものは聴こえないし、あまり波長の細かい音も聴こえないんです。人間の耳に聴こえているのは僅かな範囲なのです。聴こえていないほうが上にも下にも多いんですよ。

 そういうふうに肉体人間というものの目に見えない範囲や、手にふれない範囲がズーッと多くて、目に見えている範囲はちょっぴりなんです。そのちょっぴりの範囲の人間とか生物とかの不調和、いわゆる争いなどをみて、神様はなんて力がないんだろう、こんなに言い争うような人間を創って、というけれど、実は本当の人間は争っていないんです。ただ現われてきて、そこに波が起って争っているように見えているわけ。

 それはどうしてかというと、微妙な波動からだんだん粗い波動になるから。いわゆるいつも私が言いますが、裸で泳げば、百メートルを50何秒で泳げるのに、潜水服をきて泳いだら、何倍かかるかわかりません。のろくなるわけです。それだけペースが乱れるわけです。

 それと同じように、微妙な神様のみ心のままでくれば完全に現われるけれど、粗い波、物質の波に変化させて物質界に入った時には、どうしてものろくなってズレてくるわけです。その乱れが業になって、お互いのせり合いになるわけです。

 

民族や国が分かれているわけ

 民族や国が分かれたのは何故かというと、お互いの天命、色にたとえれば、青なら青、黄なら黄、赤なら赤という色がある。その色が互いに強めあい、調和し合って美しい色を出してゆくと同じように、各民族の天命に分かれて天命を果たしつつ、お互いがお互いを助けあって、地球界を調和させてゆくように出来ているわけなのです。

 ところが物質界に入った時に、その天命を忘れちゃって、てんめえがってなっちゃった。それで、わがまま勝手、青なら青の自分の国だけ守ればいい、赤なら赤、白なら白の国を守ればいい、と自分の国だけ、自分の民族だけを守ろうとするようになってしまった。それをさんざん経験し、ああこれじゃいけないなって、みんながわかってきた時に、はじめて物質に把われている想いが離れて、霊界の自分、神界の本体の自分に向かってゆくわけです。そうすると、本体から光がいっぱい流れ込んで、いつの間にか粗い波動が細かくなってくるわけです。

 全部が全部、肉体に現われていながらも、物質界に現われながらも、細かい波動になってくるわけです。そうなれば、お互いが、自分は神から来ているんだな、民族というものは天命を果たすためにあるんだ、だからお互いに民族は手をとり合わなければいけないんだな、と本当に心の底から思えるようになってくるわけなのです。そうすると世界平和になるんです。そしてその想いが動物にも伝わって、動物界も食べたり食べられたりしないような世界になってくるんです。

 

神のみ心が完全に現われきるまでの過程

 今はその神様のみ心が完全に現われる過程にあるんで、本当の「人」が出来ていない。人間というのは、人と動物の間という意味ですよ。それで人間というのです。本当は人間じゃなくて人なんです。人とは霊の止まる所、霊止(ヒト)であって、人間が脱皮して、完全な人になっていくわけです。その過程でいろんな宗教が現われ、祈りが生まれ、現在、世界平和の祈りが現われているわけです。

 救世の大光明の中から光をいっぱいもらって、どんどん地球界にふりまいてゆくと、知らないうちにみんなの体が霊化してくる。霊化してくると悪い想いがだんだんに消えて、自分勝手な思いが消えてきて、お互いが兄弟姉妹なんだな、ああみんな手をつながなきゃならないな、というふうになってくるのです。その先駆けとして ”世界人類が平和でありますように” というんですよ。

 ”世界人類が平和で、みんなが仲良くなりますように、神様お願いいたします” という祈りは、自分の想いがみんな調和している本体のところへスーッといっているわけです。そうすると本体の光がスーッと入ってきて、みんなの本体にも入ってゆくわけですよ。グルグル光が廻っていて、みんながきれいになっていくんです。だからたゆみなく、長年月やらなきゃならないわけです。

 そうやっているうちに、だんだん地球がきれいになっていく。地球がきれいになっていけば、いい人がますます増えてくる。政治家でもいい考えの人がドンドン出てくる。善人で強い人が現われてくる。世論もだんだん変わってくる。というふうになるわけです。

 その間に、小さな戦争もあるかもしれない。依然としてあちこちで戦争をやっていますね。人災や天災もいろんなことがあるでしょうけれども、被害がごく少なくなるように、神様のほうでちゃんとやってくれるんです。被害を少なくするために、私たちが世界平和の祈りを一生懸命やらなきゃいけないと思うんです。祈ることによって、被害が少なくなるんですからね。そうして祈っていると、別に科学的な事実によって、誰も彼もが立派になるような科学が生まれてくるわけです。

 

自分をごまかさないでみる

 だから、まだ人間は、人間から人になるための過程にあるから、苦しみがあるんだというのです。それを私が ”消えてゆく姿なんだ” と言うんですね。要するに彫刻で木片を削っている時、削りくずが散らばっているようなものだから、それを世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい。どんどん世界平和の祈りの中に入れてしまえば、やがて削りくずがきれいになって、観音像が彫りあがってゆくんだ、ということを教えているわけです。

 宗教家の中には、自分をごまかしている人が多いんです。自分は出来もしないくせに、出来るようなことをいうんです。出来ないことは出来ないんだ。出来ることは出来る。私はこれをハッキリいいます。出来ないことを出来るというと困っちゃう。そういう教えは人を知らないうちに偽善的にさせてしまう。だから、私どもは正直に、出来ることは出来る、出来ないことは出来ない、といいます。しかし、出来ないうちでも、やがて出来ることになるんだから、一生懸命やろう、今に出来ますから一生懸命やってます、とこういうわけ。

 世界は現在、平和じゃない。平和じゃないけれども、平和になるに決まっている、と神様がおっしゃるんだから、私どもは一生懸命平和の祈りをして、「一日も早く平和になるように、みんなが怪我が少なく、大戦争などなくて済むように、一生懸命平和の祈りをしています」と言えばいいのです。

 「平和の祈りなんかして救われるか、平和になるか」と言われたって「そう思うのはあなたの勝手でしょう。私たちは平和になると思って、一生懸命平和の祈りをやっています。何もしないより一生懸命平和を祈り、人類の幸福を祈っているほうがいいじゃないですか。そこで私たちはやっているのです。大勢やっていますよ」とニコニコしていれば、向こうはなんだか気持ちが悪いような、なんだか偉いのかな、と思う。

 人の言葉で動かされないようにしなさい。平和の祈りが絶対に世界を平和にするんです。平和の祈り以外に世界を平和にするものはありませんよ。

 「世界人類が平和でありますように」というんだから、みんながそう思えば思う通りになるんだから、心の底から、全部平和になることを祈っていれば、平和になるに決まっている。神様が「なる」といっているんだから、平和になるに決まっている、というわけです。

 

 

五井昌久 『 悠々とした生き方ー青空のような心で生きる秘訣 』より抜粋

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白光真宏会 公式ホームページ

https://byakko.or.jp/

世界の調和は日本人の手で

 

地球滅亡の音が

人類の滅びるひびきが

あなた方にはまるっきり聞こえないというのか

国と国とはお互いが愛し合わなければならないはず

だがどうだろうこの現実は

お互いが腹をさぐり合っての武力拡張競

どこに愛と信義のつき合いがあるというのだ

戦争公害天変地変

どれ一つとっても地球の運命は危い

その危い運命の中でただ立ちすくんでいただけでは

家庭の幸福も社会の平和もありはしない

戦争を公害を天変地変を超えうる世界を

我々の手でつくりださねばならぬのだ

滅びへの道は人類が自らつくったもの

その道を変えるのも人類自らがなさねばならぬ

その中心に立つ国は日本なのだ

日本は地球の調和をはかる大和(だいわ)の国

核爆弾の脅威を超えてきた国

世界平和への指揮は日本がとらねばならぬ

世界平和はまず祈りからはじまる

世界平和の祈りは人類を神のみ心につなぐ祈りだ

神のみ心は慈愛の大光明

我々は祈り心に乗って地球滅亡の道を天の道に変えるのだ

日本人よ調和の人々よ

世界に向って日本の平和の祈り心をひびかせよう

さあ祈りながら進んでゆこう

 

五井昌久  詩集『平和讃』所収

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Profile

1916年(大正5年) 東京に生まれる。

1949年(昭和24年) 神我一体を経験し、覚者となる。

白光真宏会を主宰。祈りによる世界平和を提唱して、国内国外に共鳴者多数。

1980年(昭和55年) 帰神(逝去)する。

合気道の開祖・植芝盛平翁や、漢学者・安岡正篤氏とは、肝胆相照らす仲であった。

 

白光真宏会 公式ホームページ

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秋風

 

秋風が吹きはじめると

繁華(はんか)な街の灯(ひ)の色さえ

深い人生を想わせる

まして村落(そんらく)の夕暮れの

入日と雲のいろどりがみせる

自然の心の美しさは

過去から未来へと永続してゆく

いのちのひゞきを感じさせる

 

秋風が人の心を浄めるのか

人が秋風の中で心を開くのか

秋風は寂滅(じゃくめつ)への道を

人間世界に投げかける

秋風に導かれて冬に達する

自然のひそやかな歩みの中には

国と国との戦争(たたかい)もなく

人と人との欲望のひしめきもない

たゞ、寂静(じゃくじょう)の奥から輝き出でる

神の大調和の光明だけがひゞきわたり

恐れず騒がず静かにおだやかに

そしていのち輝やかに

自分たちの道を進んでゆくことを私たちに教えてくれるのだ

 

五井昌久 詩集『いのり』所収

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Profile

1916年(大正5年) 東京に生まれる。

1949年(昭和24年) 神我一体を経験し、覚者となる。

白光真宏会を主宰。祈りによる世界平和を提唱して、国内国外に共鳴者多数。

1980年(昭和55年) 帰神(逝去)する。

合気道の開祖・植芝盛平翁や、漢学者・安岡正篤氏とは、肝胆相照らす仲であった。

 

白光真宏会 公式ホームページ

https://byakko.or.jp/

神様の世界に入る

 

人間の実体は神界にある

 人間は神界にもいれば霊界にもいれば、幽界にも肉体界にも同時に住んでいるのです。この真理はなかなかわからないでしょうね。肉体にはこの五感の目しかありませんから、これに映るもの以外のことはわからない。

 ところが実際には、物を叩けば音がしますね。いろいろな音がする。この音には聞こえる音と聞こえない音とあるわけです。犬などに聞こえても人間には聞こえない音もあります。犬を呼ぶ笛がありますが、これを鳴らしますと、人間には聞こえないけれど、犬には聞こえる。そういう音のひびきが実際あります。

 色でも見えない色と見える色とがあります。そのように、科学の世界においても、見えるものと見えないもの、聞こえるものと聞こえないもの、というのがあるわけです。この見えるもの、聞こえるものというのはみんな波動なのです。波なんです。波が聞こえ、波が見える。テレビを見れば一番わかりますね。

 現在は、各家庭にテレビジョン受像機がありますね。放送局で放送するものが、何十里何百里離れていてもテレビに見えてくる。アメリカであったことでも見え聞こえてくる。何が見え、聞こえてくるかというと、波動が映ってくるわけです。音の波動、光の波動がマッチして映ってくる。実体はどこにあるかというと、テレビ局にある。

 それと同じように、人間の実体は神界にあるわけでして、それがだんだんと肉体界に映ってきているわけです。それでこの世の中は現し世(うつしよ)というのです。けれど肉体界に映る間に、いろんな階層があります。霊界にもたくさんの階層があります。幽界にもたくさんの階層があります。それらのいろいろな階層を通って肉体界に映ってゆくのです。だから真っ直ぐ映れば神様の姿がそのまま映ってくるのだけれども、人には前生(ぜんしょう)もあれば、前々生もあれば、ともかく過去世(かこせ)というものがあり、過去世でいろんなことをしておりますから、その蓄積されたものが幽界にもあるし霊界にもあるわけです。それが重なって映ってくるのです。

 初めはきれいな白光(びゃっこう)の光で、光が発せられているんだけれども、途中でだんだんいろんな色がつきまして、要するに業がつきまして、それが肉体界に来る。そうすると、神様もわからない、肉体の他にはなんにも感じないような肉体人間になってしまうわけなんです。そのままでいたんじゃ神様の世界はいつまでたってもわからないわけです。そこで一遍、元へ返さないと、本当の人間の姿がわからない。

 

徐々に空になる

 そういうことを聖者の皆さんは思いまして、お釈迦様は空(くう)になれ、といったわけです。空になってなんにも思うな、空っぽになると、初めて本当の仏の姿がわかるんだ、といいました。老子さんは、無為(むい)にしてなせ、何をしよう、どうしようこうしようと思うんじゃない、そういう小智才覚を捨てたところで、初めて本当の姿がわかるんだ、といっています。聖者は誰も彼もみんな、肉体の想念知識を捨てることを教えているわけですよ。

何故そうするかというと、やっぱり本体を現わすためには、現われている肉体のほうをまずきれいにしなければ、本当の姿が映らないからです。そこで空になれ、というんです。

 私は、空になれといっても、なかなか空になれない、あんまりむずかしすぎる、ということがわかった。私は想念停止という修行をして空になりました。空になったけれどさんざん苦労してなったんで、ふつうの家庭をもった人にはとても出来るものではない、というのがよくわかったわけ。一遍に空になるなんてむずかしいから空になるのも徐々になればいいから、それでは消えてゆく姿ということにしよう、ということになった。現われてくるあらゆる出来事、病気でも不幸でも災難でも、嫌な想いでも、それはみんな過去世において溜まった横の波が現われて、消えてゆこうとしているのだ。それで消えてゆく消えてゆくと、どんどん消してゆくと、しまいには本体の光だけ、光明波動だけが残るんだ、と教えるわけです。

光明波動を余計に現わすには、常に神様の中へ入っていなければだめだ、自分の想いがいつもいつも神様の中へ入っていれば、愛と調和の神様のみ心の中に入ってさえいれば、早く消えてゆく。従ってどんどん光が充満してくる。

 

神のみ心に波長を合わせる

 神様の中に入るといっても、掴みようがありませんね。それで神様の意志である、神様のみ心である地球の平和ということ、大調和ということ、大調和ということ、そういう調和の波の中に入れば、神様の波に入ったと同じだから、それに、神様のほうで、世界人類が平和であれ、とおっしゃっているんだから、こちらは、世界人類が平和でありますように、という気持ちで、神様のみ心の波長に合わせようというので、世界人類が平和でありますように、という言葉が出来たのです。

 だから、われわれが ”世界人類が平和でありますように” という時には、神様のみ心の中へ入っているわけです。しかもそれにつけ加えて、守護霊さん守護神さん有難うございます、神様有難うございます、という感謝の言葉があります。感謝の言葉をもって神様のみ心の中へ入っちゃうんです。そうすると天と地がつながるわけです。

 空になれとか、なんとかいわなくても、消えてゆく姿で世界人類が平和でありますように、と思っていると、知らない間に自分の想いが、神様のみ心と一つになってゆく。そうしますと、いくら横の波の過去世の因縁が現われてきても、現われどんどん消えてしまいますから、残るものは神のみ心がそこに残っている。そうすると個人の幸せもそこから生まれてくる。同時に世界の幸せもそこから生まれてくる。だからあまりとやかく理屈をいわないで、ただひたすらに”世界人類が平和でありますように”という想いで生きてさえいれば、いつの間にか自分も幸せになります。安心立命します。

 

安心立命が個人の最大の幸せ

 個人の一番の幸せというのは、お金があるのは現象的には幸せですけれども、安心立命するということです。どんなことがあっても恐ろしくない。どんなことがあっても心が乱れない。そういう境地になるのが一番いいわけです。

 どんなにお金があっても、病気になって、明日死ぬかもしれない、といったら、オドオドしますでしょ。だから一番いいのは、どんなことがあってもオドオドしない人間になることです。そうなるためには常に神様のみ心の中へ入っていなければならない。世界平和の祈りをやっていますと、いつの間にか神様が自分を包んで守ってくれている、という実感が出てくるんですよ。守られているという実感が出てくる。そうすると、自分が安心していつも悠々と生きられるようになるんですよ。

 自分の幸せがそこに生まれてくる、それと同時に、世界人類が平和でありますように、という人類愛のひびきが地球にふりまかれるわけです。人類の幸せに貢献することになります。それを大勢の人がやっていれば、知らない間に世界の波が、争いの波が平和の波へ変わってゆくわけです。祈る人が多くなればなるほど早くなるわけです。そういう運動をしているのは私どもの会が初めてです。

 

単純だが深い内容

 世界人類が平和でありますように、という当たり前な平凡な言葉を祈り言葉にしているのはどこにもない。頭を使いすぎて、他のいろんな祈り言葉をやるわけですよ。ところがこの世の中は、現われとしては単純な、有難うございます、と思うことが一番いい。感謝することが一番いい。ところがその有難うございますというような、当たり前の易しいことをやりたくないんですね。人間というのは、インテリになればなるほど、当たり前のことをやりたくない。なにかむずかしいことをいおうとする。

 むずかしいことを易しい表現に現わすことが出来れば、その人は達人です。文章にしても、うまい文章家は現わし方は易しく現わす。読んでいてもすぐわかるように、しかも内容が深くある。うまい短歌でも、詩でも、俳句でも、みなそうです。単純にして中味が深い。だから本当の宗教というものも、単純にみえるけれど、中味は深い。

 世界平和の祈りは単純そうにみえますけれども、中味がズーッと深いんです。この教えは深い深い中味なんだ、しかも易しく出来るんだ、ということを皆さんが念頭において、ひたすら世界平和一念で生きれば、否でも応でも幸せになります。もう理屈はいりませんね。理屈は消えてゆく姿です。

 

他力、自力も超える

 他力でやっていて、自由に自分がやることは矛盾しないか、という人がいましたが、初めっから神様から流れて分けられた命だから、他力といえば他力なんです。ところが自分がお祈りで神様の中に入ってしまうと、他力も自力もなくなっちゃうんですよ。自ずから動く、自分がやりたいと思う行ないと、神様がやらせたいと思う行ないとが全く一つになって、それで行なわれるようになるのです。ですから、やがては自分の思うまま、なすままに行うことが、すべて神のみ心になってゆくというようになるわけです。

 私でもそうです。やりたいと思うことは神様がやること、やりたくないと思うことは神様がやりたくないこと、そういうふうにズーッと何十年通ってきているわけです。皆さんもやがてそうなるわけです。そうなるためには、ひたすらなる世界平和の祈り、ひたすら祈りの中へ入ってゆく。それを根本にして、自由にやりたいことをやっているわけです。

 今までは玉石混淆(ぎょくせきこんこう)で、業と神意識とがまざっていたものが、だんだん神の意識だけで行なえるようになるんです。自然になるんです。わざとやる必要はありませんよ。これは神がやったことかしら、業かしら、なんてそんなことをやっていたら生きられません。業も神意識もありゃしません。そんなこと考えないで、世界平和の祈りを根本にして、やりたいことをどんどんやる。世界平和の祈りをしながら泥棒をするやつはないですからね。どうしたっていいほうになっていきます。

 世界平和の祈りを根本にして、自分の思うまま堂々と自由にやればいいんです。それで自分をだましてはいけませんよ。それぐらいいいや人間だからというのは、いわゆる業の人間ですから、消えてゆく姿にしなければいけません。自分をごまかさない。もし間違ったらゴメンナサイって、心の中で神様におわびして、それでやり直せばいい。これぐらい仕方がない、とかいって、自分をごまかすことが一番いけないことですよ。それでは絶対悟りになりませんからそのつもりで、どうぞひたすらに世界平和の祈りをおやりください。

 

五井昌久『 内なる自分を開く - 本心開発メソッド 』より抜粋

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世界平和を祈ろう

 

宇宙と云うのは不思議な存在

数多の星々を輝やかせて

何んと云うこの静けさだろう

生命波動を生々とひびかせながら

それでいてこの深い深い静けさ

そんな深い静寂の中から

この地球世界にひびいてくるいのちの躍動

天空の彼方から大地の底から

生きのいのちの輝やかなことばが

すべての存在を生かしきろうとしている

 

だが まだまだ駄目なのだろうか

地球世界は幼なすぎるのか

権力と金力が生むあらゆる欲望の渦の中で

人と人とが国と国とが争い合う

生命の本源を忘れ果てた

地球世界の権力者たち

業想念波動に踊らされる肉体人間の群れ

そんな人々の吐き出す黒雲に蔽われて

地球世界の悲劇はどこまでも発展してゆこうとする

こんな時

目醒めた人々は一体どうすればよいのか

地球世界の大悲劇を未然に防ぐ為の手段を御存知なのか

それは只一つしかないのだ

世界中の人々が想いを一つにすることだけだ

人と人とが分れていても

国と国とが対立していても

本源の世界ではみんな一つの生命で結ばれていると云うことを

一人一人が知らねばならない

私とあなたが一つになり

あなたとあなたが一つになり

みんな平和を欲っしているんだと叫ぶことだ

 

世界人類が平和でありますように

私のこの祈りはその心から生れた

本源世界の大調和波動と全く一つになるひびきは

世界平和一念の生き方の中にすべての想いを投入しきることだ

私は世界平和の祈りを唱えつづける

君もあなたも唱えつづける

一人一人の唱え言が

やがて世界中の唱え言に必ずなる

私は宇宙神のみ心の中にすっぽり入りこんで

昨日も今日も明日も明後日も

世界人類が平和でありますように と唱えつづける

地球世界の大調和実現のその日まで

私の平和の祈りはつづくのだ

 

五井昌久 詩集『平和讃』所収

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Profile

1916年(大正5年) 東京に生まれる。

1949年(昭和24年) 神我一体を経験し、覚者となる。

白光真宏会を主宰。祈りによる世界平和を提唱して、国内国外に共鳴者多数。

1980年(昭和55年) 帰神(逝去)する。

合気道の開祖・植芝盛平翁や、漢学者・安岡正篤氏とは、肝胆相照らす仲であった。

 

白光真宏会 公式ホームページ

https://byakko.or.jp/

 

神様に生かしていただく

 

守護霊守護神が体を動かしている

 人間はふつう誰でも肉体が自分で動いていると思うでしょう。それはとんでもないことで、肉体がこうして動いていることは、守護霊、守護神が肉体を動かしていることなんです。

 心臓を自分で動かせるものじゃないし、肺臓よ動け、といって動かせるものじゃない。五臓六腑は全部、自分が知らないのに働いていてくださるんです。それと同じように、人間のこの世の生活というものも、自分でやっているように思うけれど、実は神様のほうで、その人の過去世の業にてらして、ふさわしいように生かしてくださるわけなのです。

 いいかえますと、今こうして生きていらっしゃる皆さんを初めすべては、過去世の因縁因果のその集積として、その結果として今の環境があり、今の身分があり、今の智恵才覚があるわけなのです。それで現在はどうしているかというと、神様の力(智恵も才能も)がそのまままっすぐに降りてきているわけなのですが、その神様の折角の智恵才覚を、過去世の業因縁、間違った想いが覆ってしまって生かしていないわけなのです。

 そこでお釈迦様は、本当に悟るためには空(くう)にならなければいけない、と説かれたのです。小智才覚で想いが乱れる。それを自分だ自分だと思っている。その自分だ自分だという想いをなくせ、空っぽにしろ、と坐禅観法を教えたわけです。おれの智恵だ、おれの才覚だ、おれはこうだというのは邪魔なんです。それを無くして空(くう)になりますと、毎日、瞬々刻々流れてきている神の智恵や才能がそのまま現われてくるわけなのです。

 それがわかると世の中はいいんだけれど、それがわからない。わからないから国と国とでも、お互いがにらみ合い、疑い合い、今に騙されやしないか、攻められるんじゃないか、というんで軍備増強に狂奔(きょうほん)したり、策戦をねって政治をするわけです。本当はそういうことは必要ないんです。ところが人類の大半はわからない。

 そこで神様はいろんな聖者を出して、小智才覚はだめなんだよ、いつも神、仏があなた方を守って、あなた方の生命、あなた方の生活を保障しているんだから、そのまま任せておきなさい、と教えた。空の鳥を見よ、というイエスの言葉があります。播かず刈らず倉に収めず、けれどちゃんと育っている、養っているということなんですよね。そういうと、「そんなこと言ったって、俺が考えなくちゃ何も出来ないじゃないか」という。俺がやらなきゃ、というけれども、俺がやるんじゃなくて、神様のほうからやると”俺が、私が”といっている何層倍の力、成果がそこに現われてくるのです。

 

神様に生命を投げ出す練習を

 皆さんは肉体でやろうやろうと思いなさんな。肉体の智恵、力でやるんだ、ということは一切捨てて、この世に生まれたのは神様が生んでくださったんだから、生活するのもあの世に行くのも、みんな神様がやってくださるんだから、神様にすっかり任せましょう。しかも祖先の悟った霊の守護霊さんが守っているし、また守護神さんも守っていらっしゃるんだから、みんな神々にお任せしましょう、といって全部投げ出しちゃうんですよ。

 投げ出す練習をしなきゃいけない。そうすると100パーセント投げ出さなくても、50でも60でも投げ出すと、それだけの力が倍加されます。

 肉体的に力んだら駄目なんです。何でもかんでも神様にやっていただく。この肉体は神様の器ですからね。人類が40億ある。それが全部神様の光の器なんです。それを業の器にしちゃっている。黒雲の器にしているんです。それを神様の器に変えるために、世界平和の祈りがあるわけです。

 世界平和の祈りを日々(にちにち)、瞬々刻々やっていますと、自分の身体が神様の器に変わると同時に、そのまま光の放射体になって、地球世界に光を放射していることになるわけです。

 だから、いつでも常に常に、自分が生きているんじゃなくて”神、我と倶(とも)にあり”、神様が自分たちを生かしてくださっているんだ、いつでもいつでも守護霊、守護神さんが守っていてくださるんだ、左の足を一歩進めるのも、守護神さん、右の足一歩歩むのも守護神さん、手を振るのも守護神さん、なんでも守護神さん守護霊さんがやってくださるんだ、と思うことです。

 

天命が完うされますように、という祈り

 これは自分ばかりじゃなくて、相手に対しても他人に対しても、守護神さんがいらっしゃってやってくださっているんだな、今、あの人は悪いことをなさっていらっしゃるけれども、あれは過去世の因縁が消えてゆく姿として現われているんで、一日も早くあの方の過去世の因縁が消えますように、守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、というように思うことです。

 罪は罪、悪は悪です。しかしそれはあくまで過去世のものが悪いんで、過去世の因縁の消えてゆく姿で、今のその人じゃないんです。今のその人は神様の子です。みんな神様の子なんですよ。

 でもこの世の中には、神様の子ではない、悪魔の子みたいなのがいるでしょう。それは過去世の因縁が悪魔の顔をさせて現われている。それを悪魔だと思ったら、この世は悪魔になっちゃいます。あっ悪魔が消えてゆくんだな、消滅してゆくんだな、それは中の守護霊守護神さんが悪魔を引き出して消してくださっているんだな、どうか早く悪い姿が消えますように、そして一日も早く神様のみ心である、あの人の魂が光り輝きますように、言い換えれば、あの人の天命が完うされますように、そういう祈り言(ごと)にかえるわけね。私どもの天命が完うされますように、あなた方の天命が完うされますように、すべての天命が完うされますように、世界人類が平和でありますように、という祈りになるわけです。本当に真理を知ると、自然とそうなってゆくわけです。そうやって生きていきますと、何事もうまくいくことになるんです。

 

五井昌久 『 内なる自分を開く - 本心開発メソッド 』より抜粋

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