spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

運命を恐れるな

 

不安の気持をなくすには

 人間は確かに自分達の運命を恐れすぎています。悪いことがありはしないか、今の幸せが果たしてつづいてゆくだろうか、というように、いつもいつも、運命が悪くなることを恐れきっている人さえあります。

 一般の人はそれほど表面だって、恐れの気持を表現してはいませんが、やはり何かと、不安の気持が胸をかすめます。近頃の地震さわぎなどは、科学的な説明のもとに、近々に大地震がありそうだと学者にいわれると、そのいろいろの用心をする心構えより先に、恐怖の気持のほうが先立って、心が不安定になり、夜もおちおち寝られないという人が出てきます。自分の生死は勿論心配だし、生活が崩れてしまうのも心配なのです。

 もっとも現在、都会が大地震になったら、それこそ大変な悲惨事になります。だからといって、まだ来てもいない地震のために、心がおびえて、日夜不安な生活を送っているなどは、愚かしいことです。大地震などないかもしれないのです。しかし不安というものは根深いもので「嫌であろうと、来るべき運命は来るし、来ない運命は来ないのです」と誰かにきつくいわれたとしても、それはそうでしょうが、やはり死ぬのはこわいし、不幸災難は嫌ですよ、と声を揃えていうことでしょう。それほど人々は未来の運命に心がおびえているのです。

 つねに人々の心に去来する死を頂点にした、不幸災難の到来を恐れる気持を、いったいどうしたらなくすことが出来るのでしょう。

 それはなんといっても、真の宗教信仰の道より他に道はないと思います。真の宗教の道とは、神と人間との関係をはっきりとわからせ、神と人間との一体化をはからせる道です。神は愛であって、つねに守護神、守護霊となって、人々を守りつづけておられこそすれ、大生命である神さまが自身の分生命(わけいのち)である小生命の人間を、いじめさいなむはずがありません。人間の不幸災難は、神さまがつくられるのではなく、人間自体の過去世からの誤った生き方の答として、そこに現われてくるのだから、悪い答の出ないうちに、大調和そのものである、神さまのみ心の中に、自分の運命ごと飛びこんでしまいなさい、と私はいうのです。

 

生かされているということ

 人間のはじまりから、よくよく考えてごらんなさい。一人の赤ん坊として生まれてくるのも、周囲の様々な生かす力(例えば太陽や空気や水や食物など)によって生かされ、育まれてゆくので、何一つ、肉体人間としての自己の力ではありません。すべて肉体人間の側からみれば、他動的な力によって生かされているのです。

 生かされ、育まれてゆくのが他動的であるのなら、死ぬことも他動的であることは、当然なことといえます。一口にいえば、生くるも死ぬるも、肉体人間の運命は、外側からみれば、すべて他動的なのです。どんな人でも、肉体的意識で赤ん坊に生まれ出てくることはできません。生まれ出てからはじめて、肉体人間としての意識が出てくるので、赤ん坊として生まれてくるまでは、自分という肉体意識はないのです。

 この世に一人の人間として生み出してくれたものは、肉体的には父母とみえながらも、実は、父母の体に働いている生命意識、つまり神さまのみ心なのです。誰一人として、神のみ心の働きなくして、この世に肉体人間として生まれ出てくる者はいないのです。とすると、生まれるはじめから神の力で生かされ、いろいろとこの世の仕事を果して、また元の世界に還ってゆくわけで、一度に源の世界に還れない人が大半ですが、なんたびか様々な世界に生まれ変りして、やがて神のみ心の奥深くに還ってゆくわけです。

 この一つ一つの生まれ変りを、肉体人間は死という言葉で表現しているので、肉体人間の意識で、死を自由にすることは出来ません。死の底には、生と同じように、神のみ心が働いているのであります。

 ただ私は、肉体人間の運命は外側からみれば、他動的に運ばれてゆくようにみえますけれど、内側、つまり霊としての人間からみれば、守護の神霊との一体化も含めて、人としての本体、本心から、肉体人間としての自己をつくりあげているのでありまして、本体の自分が守護の神霊と協力して、肉体人間をそこに生み育ててゆく、ということになるのだ、といいたいのです。

 ところが、神霊の力によって、肉体人間として誕生し、生長してゆきますと、肉体人間としての自己意識が育ってまいりまして、神霊側の意図している生き方に反する生き方を始めてしまうのです。そのギャップが、病気や不幸災難として、肉体人間の生活に現われてくるのです。

 ですから、人間はつねに神霊である自己のほうに想いを向けて、神さまのみ心のままに自己の生活をつくっていけば、不幸災難のない調和した生き方ができるのであります。

 ところが人間には習慣性というものがありまして、肉体という物質波動の世界の生き方になれてきてしまいますと、本源の神霊のひびきを忘れてしまい、肉体だけが人の生命の働いている場であるように思ってしまうのです。

 そうなりますと、肉体の頭脳というもので、すべてを考えて、この世を渡ってゆかなければならなくなり、神霊の世界からの智慧能力というものがあることを忘れ果てて、大宇宙の調和したひびきから外れた、小さく孤立した狭い範疇で生きてゆくことになってしまうのです。

 人間が素直に生きてゆけば無事に生活してゆけるように、人間に必要な要素を、外面的にも内面的にもたくさんつくっておいて下さっている神の愛というものよりも、肉体人間の智慧や知識を重要なものと思いこんでしまったのが、現在の人間なのです。想いの習慣性がエスカレート(拡大)して人間はだいたい唯物的になってしまいました。ちょっと肉体の内臓や血管のことを考えてみれば、人間を生かしているのは、物質以前のなんらかの力だということがすぐわかるのですが、内臓や血管の仕組のことだけは考えるが、どうして血ができ、どうして肺臓や心臓ができたのか、こんな微妙な働きをする大脳や小脳をいったい誰がつくったのか、肉体の人間がつくったのでないことだけはすぐわかります。

 

神との一体化

 ですから、肉体人間以前の偉大な力の存在を何人(なんぴと)といえど否定することはできないのですのに、肉体に付着している習慣の想い、つまり業の想いは、この偉大な力を神という存在とは受け取らずに、ただ自然の動きによってできた、というように解釈して、物質人間の地位を高めようとするのであります。

 こういう想いは神を信仰する人のなかにも、少しづつ残っていまして、自己の生活に、不安や恐怖が時折起こるのです。それは神だけを自己の心に住まわせないで、肉体人間観という長い間の習慣の想いに把われているからなのであります。

 人間の運命に対し不安や恐怖をもつのは、人間は神の生命を生きているんだ、神によって生かされているんだ、という、神との一体観をもっていないからなので、神との一体観というより、神さまがすべてをみていて下さるんだ、という想いを根本にして、あとはその場その時々を真剣に生きていればよいのであります。

 神と肉体人間とを離して考えた時、そこに不安や恐怖が現われてくるのですから、そこで神との一体観になる、祈り心が必要になってくるのです。人間は肉体ではない、神さまの分生命(わけいのち)なのだ、という真理をいつもいつも心に念じるように想って、習慣の想いのようにしてしまうとよいのです。そうしているうちに肉体人間という感じから、神によって生かされている人間という感じになってきます。そうなればしめたものです。

 神さまは愛なのだ、ということ。神様によって生かされているんだ、ということ。この二つの真理を知っていることは、人間が生活していく上に非常に大きな力になります。そして神様のみ心である愛と調和と誠実の行為をしてゆけば、その人にとって、恐ろしいものも、不安の想いもないのであります。

 そしてこの生活の潤滑油として、祈りをすればよいのです。祈ることは、つねに神のみ心の中に住んでいることになりますので、神我一体の行といえば、真実の祈りであると答えてもよいくらいのものです。

 自己の運命を恐れる想いがあったら、その想いごと、私のいう世界平和の祈りの中に入れてゆけば、運命を恐れる気持が次第に消えて、運命を神にゆだねる、という気持に変ってゆくのであります。

 

祈りと神さまの在り方について

 ここでまた、世界平和の祈りの話をいたしますが、世界平和の祈りは、単にこの地球界だけの調和の祈りではなく、大宇宙そのものの調和を祈る祈りなのです。もっとも大宇宙の調和は神さまのみ心そのものの現れでありますので、そのままで調和しているわけなのですが、地球なら地球の人類というものが、神さまの生命エネルギーを、神のみ心を離れた、肉体人間としての想念で自分たちの気まま勝手に使いはじめ、今日にいたる不幸災難を地球世界に現出させているわけです。その神のみ心と人間の想いとの距離(へだたり)が業というわけで、この業想念を消し去ってしまわなければ、神様の大調和のみ心が完全な現れ方をするわけがありません。

 祈りというのは、神さまのみ心のなかに、神さまと離れている人間の想念波動を入れきって、神と人間との心の距離を取りのぞく方法なのです。世界平和の祈りは、その最も具体的な祈り言によって現わされたもので、祈りそのもののなかで、同時に大調和の神のみ心をそのままこの地球に現わしている祈りなのです。

 神さまの在り方をちょっと説明してみましょう。キリスト教の教え方などでは、神さまを一神として教えておりますが、実は、神さまは一方ではすべてのすべてであり、生命の根源としての創造主、絶対者である大宇宙神として存在しながら、一方守護神として、あらゆる星々を加護している宇宙神、それから一つ一つの星、地球なら、地球の守りとしての守護神、もう少し狭い範囲で民族を守る民族神、それに個人個人を守る守護神、というように様々な場で働いていらっしゃるのです。

 私はその他に、守護神によってすっかり浄められた祖先の古い霊魂(みたま)を守護霊と呼び、その守護霊がさらに高められた守護神のことも説いているわけです。これを身近なものから系統だって申しますと、個人専属の守護霊さま守護神さま(拙著「神と人間」参照)と、世界平和の祈りの中でつねにその加護への感謝をささげている守護の神霊から、国家民族、星々の守護神、ずっと奥へ伝わって、大宇宙神にまでわれわれの想念は順次通じてゆくのであります。

 現在では宇宙の神々の地球救済の働きが、世界平和の祈りに同化して、われわれの大きな力となっているのであります。ですから、世界平和の祈りをするところには、今まで書いてきた守護の神霊のすべての力が働くことになるわけで、世界平和の祈りは、絶大な光明力を持っていることになるのです。

 みなさんは、ご自分の生活に不安をもったり、運命を恐れたりすることはありません。日々瞬々世界平和の祈りを祈りつづけてゆきさえすれば、あなた自体がいつの間にか光明化し、未来に来たるべき悪い運命もおのずと消え去ってゆくものであります。守護の神霊方がその光明で消し去って下さるのです。

 肉体人間の力で、なんとかなるさ、と自分自身の意志力をふりしぼって生きてゆくのが、勇気ある生き方に思えましょうが、大宇宙の法則をしらずに、盲めっぽうに走ってみても決して運命は改善されません。肉体人間の知恵能力だけでは、どうにもならないのが、人間の運命なのです。なぜかといいますと、現在現われている運命は、今、創ったものではなく、過去(世)においてその人が想ったり行ったりした結果が現われているものだからなのです。仏教的にいえば、過去世からの因縁因果ということになります。そのようにいったん運命として幽界にできあがっているものは、どんなに肉体的に知恵能力をふるってみても、どうにもできないものでありまして、それはちょうど幽霊を相手に、突いても叩いてもどうにもならないというのと同じことなのです。

 そこでどんなに肉体的に知恵や知識のある人でも、腕力のある人でも、肉体的に考えたのでは、運命の改善ができないことはおわかりになったことと思います。それならどうしたらよいかということになります。これからが宗教的な祈りの必要場面となるのです。

 

人間は多重層の波動体

 人間には、私がつねに申しておりますように、肉体のほかに幽体、霊体、神体というように幾つものボディがあり、幾つもの階層があり、肉体身をまといながらも、各ボディが各階層で働いているのです。ここのところがふつうの人には理解できないところでしょうが、私のほかに、どこの階層も実際に知っている人がこの地球にも大分存在しているのですから、ひとまずそんなことがあるのかなあと、半信半疑でもよいから、つづいて私の話をきいて下さい。

 みなさんは、この人間の肉体を固まった固形物のように思っていらっしゃるでしょうが、人間の目にそう見えるだけであって、実は原子や微粒子の調和によって形造られているもので、大半は、波動的空間なのです。それはあたかも、星々と大空のようなものです。その波動の世界が各階層にまたがってあるので、実をいうと、この波動の一番微妙な世界が人の本体の世界、いいかえれば神界なのです。そして次第に階層の下ったところに物質界があって、肉体人間が存在しているわけです。ですから、人の本体の世界は微妙な光明波動の世界であり、肉体界は粗い物質波動の世界なのであります。

 その粗い波動の遅鈍な物質世界に住む人間だけが、唯一の人間であるような錯覚におちいっているのが、長い間物質界に住み、物質界の習慣になれきってしまった人間なのです。そういう習慣の想いの波のなかから、神界霊界の話をきくと、奇異な感じを受けたりするのです。しかし真理は真理として、そのまま語らなければなりませんので、私は唯物論者の嘲笑をつねに受けながら、今日まで真理を伝えつづけてきているのです。

 

運命の改善の方法

 人間は、釈尊老子のいうように、肉体人間観ではもう今日以上の進化はしないのです。そこで釈尊の空(くう)や、老子の無為にいたる道を私は日常茶飯事の祈りの生活のなかから多くの人々に体得できるように働きかけているのです。未来に起こるであろう不幸災難を予測して、恐れや不安をもつのは、はじめのほうで申し上げた通り、肉体人間だけを自分だと思っている迷信によるのと、運命改善の方法を全く知らない無知によるのです。

 へんな宗教のおどかしや、宗教にまつわる様々な常識はずれの事柄を、まともに信じて悩んでいる迷信も、物質世界だけに人間が生きていると思っている想いも、ともに真理の世界からみれば迷信なのです。

 姓名学をはじめ様々な運命学がありまして、かなりの的中率を示していますが、これは、運命が過去世からの想念行為によってできあがっているものであることを証明している、ということに他ならないのです。こうした運命を改善するのは、肉体的な自己を捨てきって、神霊の世界の自分にならなければならないのです。

 みなさんはきっと、なんてむずかしいことをいう、われわれにとてもできっこない、とおっしゃるでしょう。それはそうでしょうが、肉体の自分自身でそれをやりとげようとしても、とても無理なことです。そこに祈りの重要性があるのです。祈りがなければ、とても運命改善はできないのです。そこで私は、消えてゆく姿で世界平和の祈りを説いているのです。

 消えてゆく姿というのは、この世に現われているすべての事件事柄は、過去世の因縁因果として現われてきたもので、そうした事件事柄はそういう事柄の要素を含んでいて、その人あるいはその集団の運命として現われてきたわけで、その過去世の因縁は、その果をはたして消えてゆくことになるのです。

 そういう真理を知らない人は、この事件事柄が自己や自己の集団にとって不利益であったり、不都合であったり、悲惨なことであったりすると、いつまでもその事件事柄に想いを把われていて、せっかく過去世の因縁を果して消え去ろうとする、因縁波動を再び、運命の渦の中に押しこんでしまうのです。

 それでは、いつまでたってもその個人もその集団も、運命を改善するわけにはいかないのです。私の消えてゆく姿の教えは、ここのところで重要な役目を果すのであります。そのままいつまでも、事件事柄に把われていたのでは、どうにもならない運命を、それはすべて過去世の因縁の消えてゆく姿として、世界平和の祈りの中に入れきってしまった時に、その人あるいはその集団の運命は、過去世の因縁をはなれた神のみ心そのものを現わし得る本心そのものの人、集団として、生活してゆくことができるようになるのです。

 なぜかと申しますと、事件事柄を現在だけのものとして苦悩する想念は、この世の肉体世界、三界(肉体界、幽界、霊界の下層)を超越することができず、いつまでも三界を経巡って(へめぐって)いることになり、運命の波から消え去ってゆかないのです。

 要は、消えてゆく姿として祈りとともに、神さまのみ心の中で消し去ってもらうことが必要なので、そうすれば、現われた過去世の因縁は、そこで神の光明の世界平和の祈りのなかで消え去り、その人あるいはその集団の運命は、神の光明で満たされるのであります。

 

親まかせの幼児のような生き方を

 世界平和を祈っている時、その人はすでに肉体身の人間ではなく、神界に昇っている人なのであります。人間はなんども申しますように、神の分生命(わけいのち)なのです。実際は何をしなくとも神さまにそのまま通じている生命(いのち)なのです。それを素直に通じさせなくしたのが、人間の業想念、つまり神と全然別個の小智才覚で、この世の運行をはかろうとしたからなのです。

 そこで、その小智才覚の意識を、神意識に還元させるために、祈りがあるというふうに考えてもよいのです。なんにしても、人間は神様のみ心によって、生かされつづけているのだから、明るく和やかに、その日、その日を感謝して生活してゆけばよいのですから、あまり物事を複雑にむずかしく考えず、幼な児のような親まかせの生き方をすることが大事なのです。人間の親は、先ほどから申しておりますように、神さまなのです。古代のあらゆる聖者の根本の教えは、すべて人間の業想念を消滅して、神仏と一体化する方法を教えているので、私は現代における最もやさしい方法として、消えてゆく姿で世界平和の祈りを提唱しているわけなのであります。

 私たちは体にテープレコーダーをつけて生活しているのと同じなのです。私たちの一つの想いも、一つの言葉も、一挙手一投足もみな記録されているのであります。もし、その記録されたものが自己の運命と現われては不幸であると思うならば、その録音はよいと思う録音にかえなければなりません。そこでたゆみなき世界平和の祈りの大光明を録音し、今までの不幸災難の原因である業想念を消し去り、断ち切ってしまうのです。

 みなさんはこのことを信じて、どうぞ日々の実行にうつしてみて下さい。必ず運命を恐れる気持ちがなくなります。運命を改善することができるのです。

 

 

五井昌久 『 運命を恐れるな 』より抜粋

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