spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

自分をごまかさない

 

肉体人間はみな凡夫

 この世の中には矛盾撞着(むじゅんどうちゃく)したことがたくさんあります。民族がたくさん分かれている。言葉が違う。肌の色が違う。言葉が違うということは喧嘩の原因になるだろうし、肌の色が違うということは、差別の原因になります。民族が分かれているということが、お互いに自分たちの民族を守ろうとする意識になって、自己を防衛するようになっている。

 動物たちでも、はじめからお互いに食べあわなきゃ生きられない。海の魚や小さな虫みたいなものから、大きな動物まで、すべてお互いが相手を食べあって生きています。弱肉強食の世界といいます。弱いものが強いものに食べられて生きている。

 どうして動物同志、生物同志が食べあわなければ生きていけないような世の中に、地球は出来ているのか。人間でもそうですね。どんないい人、特別な人は別だけれど、ふつう一般から少しぐらいよくったって、あるいはかなりよくったって、やっぱり自分が主です。自分のことをまず守りたい。自分のことはさておいても自分の子供のことは守りたい。

 隣の娘が病気したって、そんなに驚きやしません。「ああ気の毒に」隣の人が死にそうで「ああ気の毒に、ほんとうに」とは言います。隣りの人ならまだしも、隣りをおいたズーッと向うの名前を知らない人だったら、別に何でもない。

 ところが自分の娘だと、足を折ったなんていうと、いのちにかかわりなくても、大変だ大変だ、と真剣になるでしょ。自分の子供がちょっとけがをしただけでも、一生懸命になります。親がそうとう偉い人でも、自分のことになりるとそうなる。そんなもんですよ。

 私だってそうですよ。うちの会の人たちが病気になったら、病気になったって心配します。ほかの会の人が病気になっても、世界平和の祈りの中で祈ってはいるけれど、それは現象的にはなんにも関係ない。「死んだ?誰?ああそう」瞬間的にお祈りはするが、直接心の痛みは少ない。うちに集っている人たちは自分の子供みたいに可愛いくて、みんなが無事で、と第一番に思います。世界人類が平和で……と思うけどもサ、それは大きな話であって、大きくは世界平和でみんなが平和にならなくちゃいけないと思うけども、まず現実的な問題とすれば、うちの人たちが無事で、と思います。

 汽車が転覆した、うちの人はいないかな?いない、ああよかった。それから死んだ人やけがをした人のためにお気の毒に、と祈る。正直にいえばそうなのです。

 自分に関係ある人が死んだり、けがしたりすることが平気で、それで全然関係のない他の人が助かったほうがうれしい、なんていう人はいないんです。人間はそう出来ていないんです。神様の心は、近きより遠きに及ぼせ、で自分に近く、体も心も近くに寄っている人に、とても愛情を感じるものです。離れているものに愛情は感じません。体が離れていても、心が離れていなければ愛情は感じます。結局、自分の身内だとか、自分の同志というものには非常に愛情を感じ、みんな無事であればいい、と思います。

 たとえばロサンゼルスに地震があった。うちの人たちは大丈夫か、とまず思う。われながらいやんなっちゃうと思う。他の人も気になります。ああ気の毒だな、と思うけども、気の毒だという想い方が違うんですよ。自分につながっている人は、気の毒と思って胸にくるでしょ。

 どうしてそういうふうに出来ているのか、ということが問題なんです。 

 したがって、自分の民族、日本なら日本民族のことが一番先に思われるでしょう。誰も彼も日本に生まれている以上は、日本の運命が幸せでありますように、とまず思います。はじめアメリカが幸せになって、その次に日本で結構です。なんて誰もそんなこと言いやしません。それはアメリカ人も同じ、アメリカが先に幸せになることを望んでいる。それがいいとか悪いとかの問題じゃなくて、そうなるんですよね。

 

肉体人間はほんのちょっぴりの表われ

 そうすると、なぜ神様がはじめっからそういうようなつまらない人間を作ったのか、と思うでしょう。神様は全智全能、オールマイティなのに、どうしてこういう不完全な人間を作ったのか。人間ばかりではなく生物全部です。どうしてでしょう?

 実は神様のみ心の現われとしては、この肉体というのは、ほんの一部なんです。

 波長でいえば、肉体の波長ばかりでなく、一番微妙な波動を一とすれば、一の波動も、二の波動も三の波動も四、五、六、七の波動もあるわけです。だから人間としてそこに現われている肉体、あるいは犬なら犬として現われているボディは、単なる一番外側の現われであって、その奥にズーッと肉体として現われるまでの、現われがあるのです。

 氷山があります。海面の上に現われているのは、その氷山のほんの一部分で、海面の下にほとんど隠れているわけですね。そういうふうに、神体から霊体、霊体から幽体、というまでには、いろんな階層があり、数えあげれば何百層あるかわからない。そういう階層を通って肉体の人間が現われている。肉体の犬が現われ、肉体のライオンが現われているわけです。人間と他の動物とはちょっと違いますが。

 肉体のライオンは他の草食動物を喰うかもしれない。肉体の人間のほうはいがみあうかもしれない。しかし、根源にもどった人間の霊体、身体はいがみあっていないんです。大調和しているんです。動物も大調和しているんです。聖書にもチャンと書いてありますように、ライオンと羊はたわむれて遊んでいるんです。それが肉体界に現われた時にはゆがんじゃっているんです。

 どうしてゆがんでいるかというと、霊波動というものはいつも言うけれど、微妙な波動なんです。しかし、波動は粗くしなきゃ目に見えません。要するに、波動が細かいから目に見えないんです。波動が粗くなれば目に見えてくる。またうんと粗くなれば目に見えなくなる。音でもそうですよ。聴こえる範囲というのがありまして、波長の大きいものは聴こえないし、あまり波長の細かい音も聴こえないんです。人間の耳に聴こえているのは僅かな範囲なのです。聴こえていないほうが上にも下にも多いんですよ。

 そういうふうに肉体人間というものの目に見えない範囲や、手にふれない範囲がズーッと多くて、目に見えている範囲はちょっぴりなんです。そのちょっぴりの範囲の人間とか生物とかの不調和、いわゆる争いなどをみて、神様はなんて力がないんだろう、こんなに言い争うような人間を創って、というけれど、実は本当の人間は争っていないんです。ただ現われてきて、そこに波が起って争っているように見えているわけ。

 それはどうしてかというと、微妙な波動からだんだん粗い波動になるから。いわゆるいつも私が言いますが、裸で泳げば、百メートルを50何秒で泳げるのに、潜水服をきて泳いだら、何倍かかるかわかりません。のろくなるわけです。それだけペースが乱れるわけです。

 それと同じように、微妙な神様のみ心のままでくれば完全に現われるけれど、粗い波、物質の波に変化させて物質界に入った時には、どうしてものろくなってズレてくるわけです。その乱れが業になって、お互いのせり合いになるわけです。

 

民族や国が分かれているわけ

 民族や国が分かれたのは何故かというと、お互いの天命、色にたとえれば、青なら青、黄なら黄、赤なら赤という色がある。その色が互いに強めあい、調和し合って美しい色を出してゆくと同じように、各民族の天命に分かれて天命を果たしつつ、お互いがお互いを助けあって、地球界を調和させてゆくように出来ているわけなのです。

 ところが物質界に入った時に、その天命を忘れちゃって、てんめえがってなっちゃった。それで、わがまま勝手、青なら青の自分の国だけ守ればいい、赤なら赤、白なら白の国を守ればいい、と自分の国だけ、自分の民族だけを守ろうとするようになってしまった。それをさんざん経験し、ああこれじゃいけないなって、みんながわかってきた時に、はじめて物質に把われている想いが離れて、霊界の自分、神界の本体の自分に向かってゆくわけです。そうすると、本体から光がいっぱい流れ込んで、いつの間にか粗い波動が細かくなってくるわけです。

 全部が全部、肉体に現われていながらも、物質界に現われながらも、細かい波動になってくるわけです。そうなれば、お互いが、自分は神から来ているんだな、民族というものは天命を果たすためにあるんだ、だからお互いに民族は手をとり合わなければいけないんだな、と本当に心の底から思えるようになってくるわけなのです。そうすると世界平和になるんです。そしてその想いが動物にも伝わって、動物界も食べたり食べられたりしないような世界になってくるんです。

 

神のみ心が完全に現われきるまでの過程

 今はその神様のみ心が完全に現われる過程にあるんで、本当の「人」が出来ていない。人間というのは、人と動物の間という意味ですよ。それで人間というのです。本当は人間じゃなくて人なんです。人とは霊の止まる所、霊止(ヒト)であって、人間が脱皮して、完全な人になっていくわけです。その過程でいろんな宗教が現われ、祈りが生まれ、現在、世界平和の祈りが現われているわけです。

 救世の大光明の中から光をいっぱいもらって、どんどん地球界にふりまいてゆくと、知らないうちにみんなの体が霊化してくる。霊化してくると悪い想いがだんだんに消えて、自分勝手な思いが消えてきて、お互いが兄弟姉妹なんだな、ああみんな手をつながなきゃならないな、というふうになってくるのです。その先駆けとして ”世界人類が平和でありますように” というんですよ。

 ”世界人類が平和で、みんなが仲良くなりますように、神様お願いいたします” という祈りは、自分の想いがみんな調和している本体のところへスーッといっているわけです。そうすると本体の光がスーッと入ってきて、みんなの本体にも入ってゆくわけですよ。グルグル光が廻っていて、みんながきれいになっていくんです。だからたゆみなく、長年月やらなきゃならないわけです。

 そうやっているうちに、だんだん地球がきれいになっていく。地球がきれいになっていけば、いい人がますます増えてくる。政治家でもいい考えの人がドンドン出てくる。善人で強い人が現われてくる。世論もだんだん変わってくる。というふうになるわけです。

 その間に、小さな戦争もあるかもしれない。依然としてあちこちで戦争をやっていますね。人災や天災もいろんなことがあるでしょうけれども、被害がごく少なくなるように、神様のほうでちゃんとやってくれるんです。被害を少なくするために、私たちが世界平和の祈りを一生懸命やらなきゃいけないと思うんです。祈ることによって、被害が少なくなるんですからね。そうして祈っていると、別に科学的な事実によって、誰も彼もが立派になるような科学が生まれてくるわけです。

 

自分をごまかさないでみる

 だから、まだ人間は、人間から人になるための過程にあるから、苦しみがあるんだというのです。それを私が ”消えてゆく姿なんだ” と言うんですね。要するに彫刻で木片を削っている時、削りくずが散らばっているようなものだから、それを世界平和の祈りの中へ入れてしまいなさい。どんどん世界平和の祈りの中に入れてしまえば、やがて削りくずがきれいになって、観音像が彫りあがってゆくんだ、ということを教えているわけです。

 宗教家の中には、自分をごまかしている人が多いんです。自分は出来もしないくせに、出来るようなことをいうんです。出来ないことは出来ないんだ。出来ることは出来る。私はこれをハッキリいいます。出来ないことを出来るというと困っちゃう。そういう教えは人を知らないうちに偽善的にさせてしまう。だから、私どもは正直に、出来ることは出来る、出来ないことは出来ない、といいます。しかし、出来ないうちでも、やがて出来ることになるんだから、一生懸命やろう、今に出来ますから一生懸命やってます、とこういうわけ。

 世界は現在、平和じゃない。平和じゃないけれども、平和になるに決まっている、と神様がおっしゃるんだから、私どもは一生懸命平和の祈りをして、「一日も早く平和になるように、みんなが怪我が少なく、大戦争などなくて済むように、一生懸命平和の祈りをしています」と言えばいいのです。

 「平和の祈りなんかして救われるか、平和になるか」と言われたって「そう思うのはあなたの勝手でしょう。私たちは平和になると思って、一生懸命平和の祈りをやっています。何もしないより一生懸命平和を祈り、人類の幸福を祈っているほうがいいじゃないですか。そこで私たちはやっているのです。大勢やっていますよ」とニコニコしていれば、向こうはなんだか気持ちが悪いような、なんだか偉いのかな、と思う。

 人の言葉で動かされないようにしなさい。平和の祈りが絶対に世界を平和にするんです。平和の祈り以外に世界を平和にするものはありませんよ。

 「世界人類が平和でありますように」というんだから、みんながそう思えば思う通りになるんだから、心の底から、全部平和になることを祈っていれば、平和になるに決まっている。神様が「なる」といっているんだから、平和になるに決まっている、というわけです。

 

 

五井昌久 『 悠々とした生き方ー青空のような心で生きる秘訣 』より抜粋

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