spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

魂が大きく開く時

 

『何か辛いことがあったら、辛いことがある程「ああ、神様は私を愛していてくださるんだなあ」とこう思わなきゃいけない。』

 

『現われてくるものすべてのものに、恐れないで、みんな神様がやって下さるんだなあ、ありがとうございます。私の魂を磨いて下さるんだな有難うございます。私を愛して下さって、私に力を下さるためにこうやって下さるんだなあ、有難いな、という心になってもらいたい。それが宗教の極意ですよ。そうすると本当に神様と一つになってしまう。』

 

五井昌久 『魂が大きく開く時』より抜粋

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こころ

 

こころよ こころよ どこにゐる

まことのこころよ どこにゐる

探し求めて 幾転生(いくてんしょう)

 

私はこころの在り場所を

はじめて しつかり識りました

 

こころは天にありました

いのちの中にありました

光の中にありました

私の中にありました

 

こころは私でありました

こころはいのちでありました

こころは光でありました

 

人と人とをまんまろく

天と地(つち)とをまつすぐに

つなぐ光の波でした

 

五井昌久 『ひゞき』より

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世界平和の祈り(一)

 

天の父にむかって叫ぼう

大宇宙の中で地球の平和が成り立ちますように

地の母にむかって叫ぼう

地球人類が平和でありますように

今こそ地球大進化の時

人類は一度神のみこころに帰らねばならない

貴方も貴女も君たちも皆大神の分生命

一度(ひとたび)その本心に帰って

神々の光明波動をその肉身にひびかせねばならない

 

そうなるための世界平和の祈り

人類大調和の祈りだ

祈りの中には妬みも恨みも争いもない

個人が家庭が国家が人類が

みんな神のみこころに帰っている時だ

 

わたしも祈る あなたも祈る

個人人類同時成道の

この世界平和の祈りを

老子も釈迦もキリストも祈りつづけている世界平和の祈りを

宇宙天使の地球救済の為の光明の場を大きくひろげるためにも

私たちの祈りは重大な価値をもっているのだ

 

五井昌久 『平和讃』より引用

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意義のある人生

 

生かされている命と生きている命

 今日は人生いかに生くべきか、なんのために生きているのか、という疑問に答えてみましょう。

 人間は肉体のほうからみると、’生きている’のではないのです。’生かされている’のです。生命自体、いのちそのものからみると’生きている’のです。これをハッキリ区別しないと、哲学的なな苦悶におちいって、しまいに死んでしまったり、生きている価値がなくなって、みずからいのちを絶ったりする人が随分出てくるわけです。

 生かされている’いのち’と、生きている’いのち’がわからなくて、自分で生きていると思うから間違いが出来るのです。命というものには、大生命(宗教的にいえば神様)があって、大生命のいのちが個別に分かれて、各人間に分かれ、あるいは植物、あるいは動物といろんな形に分かれているわけです。それで人間の場合には、私がいつもいうように直毘(なおび)、直霊(ちょくれい)として大神様のみ心奥深くに、七つの働きに分かれて一番始めに存在したわけです。そして直霊の分霊として各個別の人間が出来たわけです。

 ですからあくまでも人間は肉体ではなく、形ではなくて、いのちそのまま、生命エネルギーそのものがいろんな角度に分かれ、各種に分かれて、一人一人の人間が出来ているわけです。だから人間の本体というのは何かというと、いのちそのもの、生命エネルギーそのものであって、肉体というものはいのちの力によって作られたもの、被造物なのです。肉体はだからいのちの力そのもので生きているのであって、肉体自身で生きているのではないのです。これは誰でもわかりますね。

 いのちがなくなって死んでしまった状態になれば、肉体がそこにあっても、肉体はどうしようもない。肉体は無に等しいです。いのちが入ると肉体が動く。ちょうど、動力があって、ゼンマイをかけておけば動く、動力がなくなってしまえば動かなくなってしまう機械と同じであって、肉体は機械と同じです。ですから私は器であるとか、場であるとか、いうように説明しますね。いのちの一つの働きの場が肉体なのです。

 皆さんが自分だと思っているもの、何の誰れ子、何んの誰兵衛なんだと主張している肉体というものは、実は自分で生きているのではなくて、生かされている。

 赤ちゃんとして男の子に生まれてくる。女の子に生まれてくる。ということは、肉体人間側としてはどうすることも出来ないことです。男の子は男の子、女の子は女の子、私は男の子に生まれればよかった、といっても女の子は女の子。私は女の子に生まれればよかったといっても男の子は男の子。これは自分ではどうしようもありません。絶体絶命のもの。

 そのように、肉体側からいくと、絶体絶命のもの、仕方ないということがあるんです。人間の世界では自分でどうにもならない、仕方のないことがあるんだということをハッキリわからないと、自分でどうにかしなければいけない、自分でやるやるといっていて、どうにもならなくなる場合があるのだから、その時自分を苦しめいじめてしまうことになる。

 肉体はあくまで生かされているのです。神様、守護霊守護神の力によって生かされている。肉体は生かされるままに素直に生きていれば、完全なる神様のみ心のまま、大生命の理想とするところの人間がそのまま生きていくわけです。

 

いのちの源を忘れた人間

 ところがみんないのちの元を忘れてしまったので、肉体の自分という「我(が)」というものが出てくるわけです。これがオレなんだ、と肉体がオレなんだと思うわけですね。自分の思うことは自分なんだから、自分の運命は自分で始末する、とか、人が忠告したって、それは自分で考えることなんだ、自分なんだ、と決めている。ひどいのになると、神も仏もそんなものあるもんか、人間があるだけだ、自分があるだけだという。

 自分があるだけだといったって、肉体の自分なんていうものは自分で作ったのではないんですからね。自分で作ったものではないものを、自分のものだ、誰れの厄介になるものか、オレの運命はオレが始末をつける、オレのことはオレがやるんだ、とこういう。いかにも勇ましそうに聞こえるけれども、それならもう一遍やり直して、自分の力で初めっから生まれてこい。自分の力で生まれてこられたら、サア自分のことは自分なんだから、自分で全部やって全部自分のままにしたらいい。

 ところが実際問題として、自分自分という前に、目に見える力として両親のエネルギーによって生まれてくる。目に見えない姿としては大生命の力として、生命エネルギーいわゆる神様の力として生まれてくる、それを度外視しちゃって、一番の出発点を忘れちゃって、オレなんだ、オレがやるんだ、オレがオレがとなんでもこの形の肉体の自分という、五尺何寸の自分を後生大事に、これほど大事なものはないような恰好で、自分の主張、自分の権限はこうだといっている。大きな目からみればおかしくて、おかしくてしょうがない。

 自分、自分と思っている人には、自分の運命もわからないし、自分の生きる目的もわからないわけです。人間の目的、人生の目的がわかるためには、一度肉体の自分というものを捨てないとわからないんですね。肉体で自分が生きているんだ、自分の運命は肉体の自分が作るんだ、自分なんだ自分なんだという自我を一遍もとの世界、赤ちゃんの前の世界、未生の世界、生まれない前の世界に帰さないと、本当の自分というものがわからない。小さな肉体の生かされている自分だけしかわからないのです。だから、唯物論の人が、人生いかに生くべきかと考えたって、唯物論の人には本当の人間の目的なんかわかりっこない。人生の目的も人類の意義もわからないんです。

 

人間はいかに生きるべきか

 要するに、神様のみ心にすべて返してしまって、そこから改めていのちを頂き直して、これは神様から預かったいのち、この神様から頂いた体を、いかに人類のために、もっといいかえれば神様のみ心のために生きていくかということです。

  神様というのは大生命だし、一なるものです。数十億の人類に分かれていますけれど、元をずーっと探ってゆくと、大生命のなかで全く一つなんです。大生命のなかでは韓国人も日本人もアメリカ人もインド人も、そんなものはない。みんなもとをただせば一つのいのちなんです。それで似通った波の人たちが集まって何々民族、何々民族となっているんです。

 そして、日本人は日本人で一つであり、アメリカ人はアメリカ人で一つであるわけですが、ところがアメリカはアメリカを守るために、日本は日本を守るために、中国人は中国を守るために、自民族を守るためにというんで、戦争が起こるわけです。しかし、すでにそういう時代ではないのです。それは過去のこと、過去の習慣のままに進んでいってしまっては、自民族を守るどころか、地球人類を自分の手で亡ぼして(ほろぼして)しまいかねない。

 やっぱりどうしても、人間は大神様のみ心のなかで一つのものなのだ、と知らなければいけません。神様のみ心は目には見えない。相対ではなく絶対であって、宇宙に遍満している。それを人間が人類として形に現わして、各々の場で自分の天命を果たしてゆくのです。天命を果たしてゆくようになると、自然にみんながつながり合い、助け合うことになって、神のみ心である大調和世界をこの物質の世界に実現することになるわけです。大調和の、完全な世界をこの地球界に実現してゆくために、われわれが生まれているわけです。誰れも彼もその目的のために生まれてきているわけです。

 人間の生きている目的というのは、大生命の理念といいますか、神のみ心をこの地球界に現わすために、自分たちの一人一人が生きているんであって、ただ単に自分の肉体生活の満足を得るためにだけ生まれているんじゃない。人間各自が自分の肉体生活の満足だけを得るために生きているとするならば、その人はやがて破滅する。自分の肉体的な自我を満足させるために、権威と地位を利用して、自分の勝手放題なことをした人は、最後には刑法にさらされて恥かしい目を見て、悲惨な姿になりますね。おごり高ぶった実業家、おごり高ぶった政治家、おごり高ぶった宗教家、おごり高ぶっている知識人、等々、おごり高ぶっている人たちはみんな末路が悪いです。おごる平家は久しからずです。

 やはり、自分たちの肉体の満足を得るため、自分一家族のため、自分の集団のため、自分の国のためだけを考えてやった個人、あるいは集団、あるいは国家というものは亡びます。自然の運行がそうなっている。

 なぜならば、神様のみ心というものは、完全の調和、全体の調和というものを考えて作られているんであって、その調和を破って自分だけの自我をだせば、出る釘は打たれるではないけれど、邪魔だから神様のほうから光が流れてくると、それが崩れてゆくのです。どんなに隠しおおうとしても、間違ったことをしていたら、必ずそこに現われてくる、いわゆる消えてゆく姿になって、間違ったものは滅亡してゆくわけです。

 人間はいかに生くべきか、というこの課題に対する答は、いかに自分が人類の調和のために役立っているか、人類の調和のためにどれだけ自分が役立つような生き方が出来るか、生き方をしなければならないか、ということになります。

 

意義のある生き方

 そこで端的にいうならば、人間は人類の大調和のために、世界平和のために働かなければだめだ。そうしなければ生きている意義はないんだ。各自は神のみ心から分かれ分かれになって、この地球界に平和を築くためにわれわれが生まれかわり、死にかわりしてここに現われて生きているんだ。これがわれわれ人類の天命なのです。その線に向かって働いてゆけば、その人は立派な人だし、意義ある生き方をしている人なんです。

 ですから、頭のなかでガチャガチャ、いかにあるべきか、人生とはなんぞやなんて深刻ぶってやっているよりは、少しでも一人の人のためにでも尽くせる、一人の人でも愛せる、誰れかのためになって生きる、ということがより必要だし、一番大切なのです。ふつうの家庭を持った人は妻のため、子どものために働いていればそれだけ ”いのち” が生きているわけです。しかし、妻のため子どものためにはかることが、他の利を損なうようではだめなのです。他のものをつぶして自分の家庭を立てるという形じゃいけません。収賄したりしていることは、どこかを汚しているわけです。国民の税金をむさぼり使っていたら、それは悪になります。そういうことはいけない。

 自分が正しく働いて、妻子のために非常に明るい生活をする、というのでしたら、これは家庭にしては、一番いいわけです。もっと簡単にいえば、人の迷惑にならないで、少しでも多くの人のためになる、多くの人の調和のために働ける、そういう生き方が一番立派な生き方です。

 それを大きくひろげてゆくと、世界人類が平和でありますように、という祈りの心になります。常にみんなの平和を願い、調和を願い、みんなが仲良くやってゆくことを願うような想いの人、祈り心の人は、おのずから人類のために尽くしている意義ある生き方をしているわけです。

 皆さんのように、世界平和の祈りをして日々過ごしていられる方々は、そのままで生きている意義があるわけです。八十、九十のあばあさんやおじいさんであろうと、四つの子どもであろうと、ベッドで寝たきりの病人であろうと、台所から離れられない主婦であろうとどんな人であろうと「世界人類が平和でありますように、みんなが幸せでありますように」という想いで生きている人は、そのまま人類のために働いている意義のある生き方をしているんだ、ということなのです。

 

『我を極めるー新しい人生観の発見 五井昌久』より抜粋

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必ずよくなるに決まっている

 

人間の自由自在性を奪うな

 神さまは、この世に現われている業を全部消そうと思って、守護霊守護神をつかわして、業を一生懸命消しているわけなんです。だから、恐れないで神さまの中へ入りこんでいればいいんですよ。入りこむ練習だけしていればいい。そうすると、だんだん度胸のない人が度胸がよくなってくる。暗い顔をしていた人が明るくなってくるのです。

 これからいろんな世界が展開されます。世界が平和になるのは現実の世界としては遠いでしょう。その間にいろんな恐ろしいことがどんどん出て来ます。みんなを脅かすようなことがたくさん出てくる。その時に、ああ自分は死んでも、自分たちは天国へ行くんだ、と思いこんじゃえばいい。昔のクリスチャンは偉かったですね。十字架にみな平気でかかった。

 私が教えていることは、人間は神さまの子だから、みな自由自在なんだということです。ところが今までの宗教とか、修養というものは、その自由自在性を奪ってしまって、一つの囲いの中に入れてしまって、人間はこうでなければいけない、こうしなきゃいけない、というふうに決めちゃったんです。枠の中で生きているものだから、みな不自由になって、やりたいこともやらないで我慢したり、命を縮めてしまったのです。縮めた上に宗教に入って、さらに縮められてしまう。お前、こういう心じゃいけない、こうしちゃいけない、というふうに言われますでしょう。やりたいこともやれない。というのは想いが消えてしまったのではなく、やりたいのを我慢したわけです。潜在意識の中にみなたまっていきまして、うんとたまって、原子爆弾みたいに凝縮されるわけです。ある縁にふれるとポンと爆発しちゃうわけです。

 人間は生まれて来てこの方、みな軌道というものがあって、その軌道によって運命は廻っているわけです。だから親子であろうと、兄弟であろうと、夫婦であろうと、相手を押さえて、自分に屈服させて、相手を自分の思う通りに指導しようということは、もう神さまのみ心じゃないんです。相手を自分の意思に従わせるということは、たとえどんないいことであっても、それは神さまのみ心ではない。何故かというと、神さまが本当に力を発揮すれば、全知全能なんだから、フルシチョフがいけないと思ったら、ポンとフルシチョフの首を切るでしょう。毛沢東がいけないと思えば、ポンと殺してしまうことが出来るでしょう。

 神さまはどんなことでもいっぺんに出来るわけですよね。ところがそういうことはないでしょう。悪いことをやっていても悪いままにさせておく、良いことをしても良いままにさせておく。そのまま人間の自由にまかせてあるわけですよ。さあそこが問題なのですね。

 自由にも二つあるわけです。本当にいのちを自由にして、みんな仲良く手をつなぎ合って、各自の立場でみんなが自由に生きられるような生き方をしているか、または外の自由はみな奪っちゃって、自分たちだけの自由と権利を主張して生きていくか。これは業の生き方です。もう一つのさっき言った仲良く手をつないで、みんなが自由に生きられるような生き方を、自分がしていることが神さまのみ心でしょう。

 そこで私は神のみ心の生き方を指導しているわけです。そのためにはどうしたらいいかというと、親子であろうと、夫婦であろうと兄弟姉妹であろうと、友だちであろうと、やっていることを押えてはダメですよ。失敗してもいいと思うんですよ。間違ったことをしてもいいと思う。廻っているんだから仕方がない。いくら押えても廻っているものは、軌道に乗っているんだから、いくら押えたって、手をはなせば今度はものすごい力で廻って、かえって破壊力が大きくなるわけです。だからそういう方法というのはだめです。それではどうしたらいいかというと、ぐるぐる廻っている業の外へ出て、神さまのみ心の中へ入れてしまえばいいわけです。

 

小言ではだめだ

 神さまのみ心は何かというと、愛なのです。光なのです。自由自在性なんですね。だからこちらの光を向こうへ当てればいいわけなんですよ。

 一人の人間が業につぶされているとしますね。そうすると、お前そうしちゃだめだ、と言っても、そうすることは業をただ叩いていることなのだから、業がますます固くなり厚くなって本心を掩って(おおって)しまうわけなんです。それではいけないから、二人なり3人なりの同志が、その人の知り合いが「神さまお願いします。天命が現われますように、どうかあの人が立派になりますように」という祈り心をこちらから出すと、祈りは光ですから、神さまのみ心ですから、相手に行って相手の業をはぐわけです。業を薄めちゃうわけです。それが二人なり三人なり五人なり、団体になると、大勢の祈りが光になって、その人の業を消していくわけですよ。

 言葉で、だめだ良いというよりも、そうやって光を投げかけてゆくと、いつの間にか業がはがれてしまって、神さまの軌道にのれるわけ。本心が現われるわけですね。そういう生き方を私は教えているわけです。今までの宗教や修養とそこが違うわけ。今までのは、必ずその人の悪いところをつかまえるのですよ。あなたが短気だから短気を直さなければいけない。お前は妬みが多いからそれを直さなければいけない。お前は意気地がないからそれではダメだ、とこうやるわけね。

 そうやることはその人に悪いことを認めさせちゃうことです。ああ自分は短気でダメなんだ、自分は妬みがあってダメなんだ、自分は気が弱くてだめだ、というふうに、小さな小さな業の人間になっちゃう。

 そうじゃないんです。あなたは神の子で光輝いている、あなたは出せばどんな力でも出るんだよ、あなたがやればどんなことでも出来るんだよ、ただし、神さまにつながらなくちゃだめなんだから、神さまにつながりなさい。神さまはどういうことになっているかというと、守護霊守護神としてあって、祖先の悟った人が守護霊としてついている。その上に神さまそのものとして守護神がついていて、それが協力して分霊の自分にいい仕事をさせよう、神さまのみ心を現わさせようと思って、一所懸命になっているんだから、守護霊守護神につながりなさい、つながる方法は世界平和の祈りだよ、と教えているわけね。

 とやかく口でうるさく小言をいったってダメなんです。悪いこが出来るというのは前生の因縁ですけれども、今生のやり方としては、あまり小言をいいすぎちゃだめなんです。といってあまり野方図に業の那須ままをさせちゃだめなんです。業をはがすようにしてやらなければ。業を押しこむ小言はいけません。対等にいのちが流れてゆくんじゃなくて、自分のほうが、これを教えてやろうと言って、高みに立って、自分は威張りたい心で、ダメじゃないかと言ったって、威張りたい心は業だから、業と業がぶつかってずっと押さえこんでしまうだけなのです。だから喧嘩になる。何言ってやがるんだ。なんだあのヤロー生意気に、とこうなる。そういうことではだめ。

 

別の人間になっちゃだめ

 本当の愛で、向こうの立場になって、そうだな、勉強するのはいやだな、お父さんだって勉強は面倒くさいからいやなんだ、いやだけども、やらなきゃ偉くなれないだろう、ま一所懸命やろうよ、協力してやるよ、というふうにやれば、なんだか味方にしたようでやるわけでしょう。それを夫でも妻でも、先輩後輩でも、たいがい教えようとするのですよ。あなた間違ってるからそれじゃだめじゃないの、とこうやるわけ。間違っていると言われると、そこに掴まっちゃうわけね。どうせだめだってことになる。そういうふうに業に掴まらしちゃだめだから、業をはぎとることをみんながやらなきゃならない。

 自分の業も消すんだし、人の業も消すんだし、消すためには、肉体の自分の力では足らないから、神さまの力を借りて来て、守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、あの人の天命が完うされますように、という心で持って、あなたこうしましょうよ、私も一所懸命やるわ、というようにやれば、ああ家内が一所懸命応援してくれる、うちの子供が応援してくれる、うちのお母さんは応援してくれる、というふうになって、力が倍加していくわけです。

 夫と妻の間でも、親子の間でも離れちゃだめです。別の人間になっちゃだめ、みないのちというのは一体だから、すべてが一体になっているんだから、一体の境地にならなきゃだめでしょう。小言というのは離れています。愛というのは離れていません。愛は小言など言いませんよ。ああかわいそうに、私も一所懸命やりましょう、とこう思うんです。小言というのは子供なら子供を別に見る、離れてます。夫なら夫、妻なら妻を別に見て、なんだ夫はだめじゃないか、この子はだめじゃないか、なんだあんなことをして、とこうやる。だから胸がむかむかして言うような言葉なら、言わないほうがいい。

 注意の言葉をいう時には、いつでも胸がスーッとしている時に言う。むかむかした時は絶対にいっちゃだめです。むかむかしている時は祈って、まず自分のむかむかをなくして、平気になって、心が平静になったら、あなたこうしましょうじゃありませんか、とか、子供に、お前こうしようよ、お母さんが一緒にやるからね、とか言えば、それがスーッと入ってゆく。抵抗がなくなるわけね。自分の心臓がバクバクしているようじゃ言ってはだめだというの。心臓がバクバクして言う言葉か、バクバクしないで言う言葉か、と言うことを考えていただきたい。

 

いのちを自由に生かしきる

 私の教えというのは、お互いのいのちを自由に生かして生きる、ということです。ただ生きいきと生きる手前には、前生からのいろんな業があるから、間違ったことも失敗もするでしょう。しかしそれは消えてゆく姿としてやらなきゃだめだ、というわけです。

 悪いことは悪いことでだめなんだけれども、悪いことに引っ張られたら、それがはがれる場合には、引っ張られたほうがいいでしょうし、カツンとやったほうがいい場合には、カツンとやったらいいでしょう。しかし大概カツンとやるよりも、柔らかく優しく、じわじわと光をあたためて光を入れてやったほうが、おおむね効果がある、と私の経験ではそう思うのです。だから私はあまり叱ったことも怒ったこともない。黙ってポンポンと柏手を打っています。どうしてこれが光になるかというと、私の中に何もないから。相手が馬鹿だ、ちょんだと何も思ってない。黙って光が入ってゆく。これをつづけてやっていると幽体にある業がどんどんはがれてゆく。中の本心がどんどん出てくるわけです。すると知らない間に運命が良くなる。

 人間の生き方としては、あせってはダメ。運命は決まっている。平和の祈りに入っている人は、平和の祈りの中でもう運命は決まっちゃっているわけね。平和の祈りは世界最高の祈りなんだから、人類が平和になるということは神さまのみ心だから、平和の祈りに入ったら、その人は悪くなりようがないですよ。入らない前より悪くなりっこない。必ず良くなるに決まっている。だからどんなことが現われても、あせらないで、悪いことが現われたら、消えてゆく姿と思って、一所懸命祈ってさえいれば、現われてくるものが、どんどんいいものに変わってくる。

 そのうちに、いいも悪いも問題でなくなって、この世の現象のいいとか悪いとか問題でなくなって、いつも心が平安であることだけを目指してゆくようになってしまいます。

 

五井昌久 『私に荷物を預けなさい』より引用

愛は光なり

 

姿形美しき(うるわしき)はよろし

才能豊かなるもまたよろし

然し更によろしきは

深き愛の心なり

報いを求めざる愛は光なり

光は世を照らす

たとえ姿形備わずとも(ととのわずとも)

才能貧しかるとも

愛の心深き人は

まこと神の子なり

 

偽善は愛ならず

自らの光を蔽う業(おおうわざ)

本心は神のみ心なれば

裸心こそ愛の湧き出ずるところなり

自己をかばいて闇に陥るな

自我に溺れ権威を誇るのものはやがて滅び

愛の光一元なる神の子の世は開くなり

 

五井昌久 『平和讃』所収)

人類即神也

 

 私が語ること、想うこと、表わすことは、すべて人類のことのみ。人類の幸せのみ。人類の平和のみ。人類が真理に目覚めることのみ。

 故に、私個に関する一切の言葉、想念、行為に私心なし、自我なし、対立なし。すべては宇宙そのもの、光そのもの、真理そのもの、神の存在そのものなり。

 地球上に生ずるいかなる天変地変、環境汚染、飢餓、病気……これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスなり。

 世界中で繰り広げられる戦争、民族紛争、宗教対立……これらも又すべて「人類即神也」を顕す為のプロセスなり。

 故に、いかなる地球上の出来事、状況、ニュース、情報に対しても、又、人類の様々なる生き方、想念、行為に対しても、且つ又、小智才覚により神域を汚してしまっている発明発見に対してさえも、これらすべて「人類即神也」を顕すためのプロセスとして、いかなる批判、非難、評価も下さず、それらに対して何ら一切関知せず。

 私は只ひたすら人類に対して、神の無限なる愛と赦しと慈しみを与えつづけ、人類すべてが真理に目覚めるその時に至るまで、人類一人一人に代わって「人類即神也」の印を組みつづけるのである。

 

JINRUI SOKU KAMI NARI

   What I speak, / think / and do / are only for humanity. / Only for the happiness of humanity. / Only for the peace of humanity. / Only for the awakening of humanity. /

   Threfore, / the words, / thoughts / and actions I myself have / are beyond any selfishness, / ego / or conflict. / They are, / in themselves, / the universe, / light, / truth, / and the existence of God. /

   Any disasters, / environmental pollution, / hunger / or diseases / taking place on earth / occur / only in the process of JINRUI SOKU KAMI NARI : / manifesting God / within humanity. /

   Wars, / ethnic and religious conflicts / happening in the world / also occur / in the process of JINRUI SOKU KAMI NARI : / manifesting God / within humanity. /

   Thus, / I don't hold any criticism, / blame / or judgement / toward any incidents, / circumstances, / news / or information on earth ; / toward various ways of living, / thoughts / and actions of mankind ; / or toward inventions / that have intruded into the realm of God / through limited human knowledge. / I do not involve myself / with these things, / understanding / that they occur / only in the process of JINRUI SOKU KAMI NARI : / manifesting God / within humanity. /

   I intently continue giving / the infinite love, / forgiveness and mercy of God / to humanity. / And until the time / when all humanity awakens to truth, / I continue performing the IN / of JINRUI SOKU KAMI NARI / on behalf of each human being.

 

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