spireal’s diary

世界人類が平和でありますように

必ずよくなるに決まっている

 

人間の自由自在性を奪うな

 神さまは、この世に現われている業を全部消そうと思って、守護霊守護神をつかわして、業を一生懸命消しているわけなんです。だから、恐れないで神さまの中へ入りこんでいればいいんですよ。入りこむ練習だけしていればいい。そうすると、だんだん度胸のない人が度胸がよくなってくる。暗い顔をしていた人が明るくなってくるのです。

 これからいろんな世界が展開されます。世界が平和になるのは現実の世界としては遠いでしょう。その間にいろんな恐ろしいことがどんどん出て来ます。みんなを脅かすようなことがたくさん出てくる。その時に、ああ自分は死んでも、自分たちは天国へ行くんだ、と思いこんじゃえばいい。昔のクリスチャンは偉かったですね。十字架にみな平気でかかった。

 私が教えていることは、人間は神さまの子だから、みな自由自在なんだということです。ところが今までの宗教とか、修養というものは、その自由自在性を奪ってしまって、一つの囲いの中に入れてしまって、人間はこうでなければいけない、こうしなきゃいけない、というふうに決めちゃったんです。枠の中で生きているものだから、みな不自由になって、やりたいこともやらないで我慢したり、命を縮めてしまったのです。縮めた上に宗教に入って、さらに縮められてしまう。お前、こういう心じゃいけない、こうしちゃいけない、というふうに言われますでしょう。やりたいこともやれない。というのは想いが消えてしまったのではなく、やりたいのを我慢したわけです。潜在意識の中にみなたまっていきまして、うんとたまって、原子爆弾みたいに凝縮されるわけです。ある縁にふれるとポンと爆発しちゃうわけです。

 人間は生まれて来てこの方、みな軌道というものがあって、その軌道によって運命は廻っているわけです。だから親子であろうと、兄弟であろうと、夫婦であろうと、相手を押さえて、自分に屈服させて、相手を自分の思う通りに指導しようということは、もう神さまのみ心じゃないんです。相手を自分の意思に従わせるということは、たとえどんないいことであっても、それは神さまのみ心ではない。何故かというと、神さまが本当に力を発揮すれば、全知全能なんだから、フルシチョフがいけないと思ったら、ポンとフルシチョフの首を切るでしょう。毛沢東がいけないと思えば、ポンと殺してしまうことが出来るでしょう。

 神さまはどんなことでもいっぺんに出来るわけですよね。ところがそういうことはないでしょう。悪いことをやっていても悪いままにさせておく、良いことをしても良いままにさせておく。そのまま人間の自由にまかせてあるわけですよ。さあそこが問題なのですね。

 自由にも二つあるわけです。本当にいのちを自由にして、みんな仲良く手をつなぎ合って、各自の立場でみんなが自由に生きられるような生き方をしているか、または外の自由はみな奪っちゃって、自分たちだけの自由と権利を主張して生きていくか。これは業の生き方です。もう一つのさっき言った仲良く手をつないで、みんなが自由に生きられるような生き方を、自分がしていることが神さまのみ心でしょう。

 そこで私は神のみ心の生き方を指導しているわけです。そのためにはどうしたらいいかというと、親子であろうと、夫婦であろうと兄弟姉妹であろうと、友だちであろうと、やっていることを押えてはダメですよ。失敗してもいいと思うんですよ。間違ったことをしてもいいと思う。廻っているんだから仕方がない。いくら押えても廻っているものは、軌道に乗っているんだから、いくら押えたって、手をはなせば今度はものすごい力で廻って、かえって破壊力が大きくなるわけです。だからそういう方法というのはだめです。それではどうしたらいいかというと、ぐるぐる廻っている業の外へ出て、神さまのみ心の中へ入れてしまえばいいわけです。

 

小言ではだめだ

 神さまのみ心は何かというと、愛なのです。光なのです。自由自在性なんですね。だからこちらの光を向こうへ当てればいいわけなんですよ。

 一人の人間が業につぶされているとしますね。そうすると、お前そうしちゃだめだ、と言っても、そうすることは業をただ叩いていることなのだから、業がますます固くなり厚くなって本心を掩って(おおって)しまうわけなんです。それではいけないから、二人なり3人なりの同志が、その人の知り合いが「神さまお願いします。天命が現われますように、どうかあの人が立派になりますように」という祈り心をこちらから出すと、祈りは光ですから、神さまのみ心ですから、相手に行って相手の業をはぐわけです。業を薄めちゃうわけです。それが二人なり三人なり五人なり、団体になると、大勢の祈りが光になって、その人の業を消していくわけですよ。

 言葉で、だめだ良いというよりも、そうやって光を投げかけてゆくと、いつの間にか業がはがれてしまって、神さまの軌道にのれるわけ。本心が現われるわけですね。そういう生き方を私は教えているわけです。今までの宗教や修養とそこが違うわけ。今までのは、必ずその人の悪いところをつかまえるのですよ。あなたが短気だから短気を直さなければいけない。お前は妬みが多いからそれを直さなければいけない。お前は意気地がないからそれではダメだ、とこうやるわけね。

 そうやることはその人に悪いことを認めさせちゃうことです。ああ自分は短気でダメなんだ、自分は妬みがあってダメなんだ、自分は気が弱くてだめだ、というふうに、小さな小さな業の人間になっちゃう。

 そうじゃないんです。あなたは神の子で光輝いている、あなたは出せばどんな力でも出るんだよ、あなたがやればどんなことでも出来るんだよ、ただし、神さまにつながらなくちゃだめなんだから、神さまにつながりなさい。神さまはどういうことになっているかというと、守護霊守護神としてあって、祖先の悟った人が守護霊としてついている。その上に神さまそのものとして守護神がついていて、それが協力して分霊の自分にいい仕事をさせよう、神さまのみ心を現わさせようと思って、一所懸命になっているんだから、守護霊守護神につながりなさい、つながる方法は世界平和の祈りだよ、と教えているわけね。

 とやかく口でうるさく小言をいったってダメなんです。悪いこが出来るというのは前生の因縁ですけれども、今生のやり方としては、あまり小言をいいすぎちゃだめなんです。といってあまり野方図に業の那須ままをさせちゃだめなんです。業をはがすようにしてやらなければ。業を押しこむ小言はいけません。対等にいのちが流れてゆくんじゃなくて、自分のほうが、これを教えてやろうと言って、高みに立って、自分は威張りたい心で、ダメじゃないかと言ったって、威張りたい心は業だから、業と業がぶつかってずっと押さえこんでしまうだけなのです。だから喧嘩になる。何言ってやがるんだ。なんだあのヤロー生意気に、とこうなる。そういうことではだめ。

 

別の人間になっちゃだめ

 本当の愛で、向こうの立場になって、そうだな、勉強するのはいやだな、お父さんだって勉強は面倒くさいからいやなんだ、いやだけども、やらなきゃ偉くなれないだろう、ま一所懸命やろうよ、協力してやるよ、というふうにやれば、なんだか味方にしたようでやるわけでしょう。それを夫でも妻でも、先輩後輩でも、たいがい教えようとするのですよ。あなた間違ってるからそれじゃだめじゃないの、とこうやるわけ。間違っていると言われると、そこに掴まっちゃうわけね。どうせだめだってことになる。そういうふうに業に掴まらしちゃだめだから、業をはぎとることをみんながやらなきゃならない。

 自分の業も消すんだし、人の業も消すんだし、消すためには、肉体の自分の力では足らないから、神さまの力を借りて来て、守護霊さん守護神さんよろしくお願いします、あの人の天命が完うされますように、という心で持って、あなたこうしましょうよ、私も一所懸命やるわ、というようにやれば、ああ家内が一所懸命応援してくれる、うちの子供が応援してくれる、うちのお母さんは応援してくれる、というふうになって、力が倍加していくわけです。

 夫と妻の間でも、親子の間でも離れちゃだめです。別の人間になっちゃだめ、みないのちというのは一体だから、すべてが一体になっているんだから、一体の境地にならなきゃだめでしょう。小言というのは離れています。愛というのは離れていません。愛は小言など言いませんよ。ああかわいそうに、私も一所懸命やりましょう、とこう思うんです。小言というのは子供なら子供を別に見る、離れてます。夫なら夫、妻なら妻を別に見て、なんだ夫はだめじゃないか、この子はだめじゃないか、なんだあんなことをして、とこうやる。だから胸がむかむかして言うような言葉なら、言わないほうがいい。

 注意の言葉をいう時には、いつでも胸がスーッとしている時に言う。むかむかした時は絶対にいっちゃだめです。むかむかしている時は祈って、まず自分のむかむかをなくして、平気になって、心が平静になったら、あなたこうしましょうじゃありませんか、とか、子供に、お前こうしようよ、お母さんが一緒にやるからね、とか言えば、それがスーッと入ってゆく。抵抗がなくなるわけね。自分の心臓がバクバクしているようじゃ言ってはだめだというの。心臓がバクバクして言う言葉か、バクバクしないで言う言葉か、と言うことを考えていただきたい。

 

いのちを自由に生かしきる

 私の教えというのは、お互いのいのちを自由に生かして生きる、ということです。ただ生きいきと生きる手前には、前生からのいろんな業があるから、間違ったことも失敗もするでしょう。しかしそれは消えてゆく姿としてやらなきゃだめだ、というわけです。

 悪いことは悪いことでだめなんだけれども、悪いことに引っ張られたら、それがはがれる場合には、引っ張られたほうがいいでしょうし、カツンとやったほうがいい場合には、カツンとやったらいいでしょう。しかし大概カツンとやるよりも、柔らかく優しく、じわじわと光をあたためて光を入れてやったほうが、おおむね効果がある、と私の経験ではそう思うのです。だから私はあまり叱ったことも怒ったこともない。黙ってポンポンと柏手を打っています。どうしてこれが光になるかというと、私の中に何もないから。相手が馬鹿だ、ちょんだと何も思ってない。黙って光が入ってゆく。これをつづけてやっていると幽体にある業がどんどんはがれてゆく。中の本心がどんどん出てくるわけです。すると知らない間に運命が良くなる。

 人間の生き方としては、あせってはダメ。運命は決まっている。平和の祈りに入っている人は、平和の祈りの中でもう運命は決まっちゃっているわけね。平和の祈りは世界最高の祈りなんだから、人類が平和になるということは神さまのみ心だから、平和の祈りに入ったら、その人は悪くなりようがないですよ。入らない前より悪くなりっこない。必ず良くなるに決まっている。だからどんなことが現われても、あせらないで、悪いことが現われたら、消えてゆく姿と思って、一所懸命祈ってさえいれば、現われてくるものが、どんどんいいものに変わってくる。

 そのうちに、いいも悪いも問題でなくなって、この世の現象のいいとか悪いとか問題でなくなって、いつも心が平安であることだけを目指してゆくようになってしまいます。

 

五井昌久 『私に荷物を預けなさい』より引用