肉体身だけが人間の全存在か
私は少年の頃は、自然も好きでしたが、人間も実に好きでした。人と人との交わりというものが、何ともいえず快いものに思われていたのでした。
私の住んでいたのは下町だったので、小さな家が雑然と建っていて、開けっぴろげな心のおかみさん達が、好き放題なことをいい合い、笑い合っていたりしていました。そうしたおばさん達が、どうしてか私をとても好いてくれて、大人の仲間に入れて、大人並みの話をきかせてくれたものでした。
私はそんな大人の話を無心に聞いていたものでしたが、話の内容などは毛頭心に残らず人間の生命と生命が交流し合っている、和やかな美しさだけを心に残していたのでした。そして、いつも心に喜びが充ちていたようでした。
そんな少年が次第に青年になり、社会に出るようになっていきますと、急に人間の世界の虚言や虚飾や、様々な汚れに目がとどき出してきて、自分の正義感が、常に自分の住んでいる世界を打ちこわそうとして心の中を暴れ廻わり、人間世界の悪をしっかり心に摑んでしまっていたのでした。
人間というものは、実にけがらわしい、嫌なものだ、という気持が、人間の善性を認めている気持と、交互に私の心を占領しているようになっていました。そんな気持が、真実の人間性というものを、否応なしに、私に追求させてゆき、罪悪深重の凡夫としての人間と、神の子としての人間との両面を持つ人間というものに突き当たっていったのでした。
人間とは果して如何なる存在者なのであろうか、私はその問題に一心かけてぶつかってきたわけなのです。そして現在では、消えてゆく姿の人間と、実在としての人間、つまり神の子人間との両面が、世界平和の祈りという祈り言の中で、すっかり融け合って、永遠の生命のよどみない流れとして、大らかなひびきを日常生活の中で、かなでられるようになってきたのです。
人間というと、この五尺何寸の肉体の姿をすぐに思い浮かべます。人間とは肉体身なり、と思っている人が、かなり多くあるわけなのです。かなりどころではない、大半の人々がそう思っているかも知れません。
人間は肉体身そのものだ、と思っているような思想では、この人類世界は、もうとても永持ちは致しません。やがては自らを自らの手で壊滅させてしまうに決っているのであります。
私が常に口をきわめて申しておりますように、肉体身とは人間の一つの現われにしか過ぎません。現在の科学もすでに証明しておりますように、物質はすべて波動の現われにしか過ぎません。肉体も一つの物質であって、やはり固定した確固たる存在でないことは、明らかなことです。あらゆる物質が変滅すると同じように、肉体も変滅する存在です。
そんな変滅してしまう肉体身だけを人間の全存在だと思っているような人類では、とても永続きの出来るわけがありません。変じ滅してしまう原則の下に存在しているようなものが、永遠の生命と一つのものとは到底思われないからなのです。
人類が、そうした変じ滅してしまうような人間観から、解き放たれない限りは、その観念の現われとして、やがて滅亡してしまうことになるのです。
人間は誰も彼も、自分が滅びてしまってよい、と思っている人はないのです。自分を滅亡させまい、滅びさせまい、という気持が、種々とものを考え、様々な努力をして、今日までの人類を生かしてきているのであります。
そうした心が、文明文化を生み育て、科学の発達を遂げさせているのですが、この人類を滅亡させたくない心というのは、一体どこからくるのでありましょう。それは、永遠の生命のひびきが、自ずと人間各自の心にひびき、人類の心として種々な働きとなってきているのであります。
人類は永遠の生命の中心的働きとしての現われなのです。ですから、永遠の生命観から離れた、単なる肉体観、人間は肉体身なり、というような、浅はかな考えでは、人類は滅びるより仕方がない、ということになるのです。
人類の心が永遠の生命という観点から離れた、単なる肉体人間観になった時、人類は自我欲望という自己保存の本能に躍らされて、敵をつくり、武器を持って立つ、ということになるのです。その最たる現われが、米ソの核兵器競争なのであります。
生命の根源は一つ
相対的な人間というものは、過去世からの因縁で、悪い面や嫌な面が見えてきたりはしますが、私が少年の頃に直感していたように、お互いの生命の流れは、調和したひびきをたてて交流し合っているのです。生命の世界では、如何に相対的な争いの想いに充ちていても、一つの流れとして、快いひびきをかなでているのであります。
ですから表面に見えている、如何なる悪も誤った想念も、すべては肉体人間観にまつわる消えてゆく姿であって、永遠の生命は、宇宙に満ちた快い光明として光り輝いているのです。
すべては大生命(神)の分生命として、永遠の生命の画き出す、宇宙図を各自のタッチで画きつづけているわけなのであります。人間はお互いの肉体身と分かれているように見えますが、実は、地球世界に神のみ心を顕現する便宜上、そうした姿で、お互いの天命を完うし合っているわけなので、元は大生命の中で、一つに交流し合っているわけなのであります。
私たちが現在こうして持っております肉体身は、永遠の生命を離れた肉体身として存在を許されているのではなく、永遠の生命の働きの一筋である分生命としての自分が、地球界物質界での働きやすい同じような物質波動として、肉体身を現わしているだけなのです。
人間が肉体身だと思っていれば、どうしたとて、相手と自分を全く違ったものと思ってしまいますし、お互いの生命の交流というものを阻害しやすくなります。そうしますと、自他の利害関係の相違では、争いもしかねなくなり、憎み合う状態も起ってきます。
人間は一つの生命から分れてきている者である、ときかされても、自分の想念が、自分という肉体観念に把われているようですと、生命の根源は一つのものという真理が、実際の生活には生かされてこないことになります。
肉体の人間の眼には、生命の流れとか、心のひびきとかいうものが見えるわけではありません。そうしたひびきを感じるのは、肉体身そのものではなくて、生命波動そのものが感じとるわけです。相手の心のひびきを感じるのは、やはりこちらの心が感じるのであります。そのひびきは或る時は、肉体的行動として伝わってくるかも知れませんが、肉体的行動として伝わってきても、相手の心のひびきの真意を知るのは、やはりこちらの心が感じとるのであって、肉体身にまつわる触覚で知るのではありません。
私のように肉体身をすべて神のみ心に託ね(ゆだね)つくしてしまった者にとっては、肉体身の存在の有無にかかわりなく、相手の心のひびきを知ることができるのです。相手がそこに肉体身として存在しようが、遠方の地にいようが、そんなこととは関係なく、その人の心のひびきを知り得るのです。
人間はひびきである
それはどうしてそうなるかと申しますと、人間の存在というものは、その場所に肉体がいなければ、その人が存在しない、というものではなく、そこにその人の肉体身がいるから存在しているというものでもなく、そこにその人の心のひびきが伝わってきているか、きていないかによって、その人がそこに存在する存在しないということになるのです。
これは普通の人にはむずかしいいい方になりましたが、その人の心がそこに無ければ、その人の肉体身がそこにいてもその人がそこにいないのと同じことである、ということなのであります。
もっといいかえて申しますと、多勢の人が同じ部屋にいたとしまして、その各自が、お互いの家人や知人のことを思いつめている時に、その人の心はその家人や知人のところにいるのでありまして、その部屋には単に形だけが存在しているわけで、その人の実体は、家人や知人のところにいることになるのです。
こういうことは、科学面の発達によっても次第にわかっては参りますが、人間の本質は心そのものにあるので、心が生命を自由自在に働かせて真実の人間世界を創りあげてゆくわけなのです。
現在の地球人類というものは、まだ真実の人間が現われきっていない姿でありまして、人間とは肉体身というような固定したものではない、ということが、電波や光波の発見発達によりまして、だんだんと判らされてゆく過渡的な存在なのであります。
そこで私たち宗教者の役目としては、そうした科学の面からでなく、直覚的な面から、人間は単なる肉体身ではないのだ、ということを人々に知らせてゆかなければならないのです。
肉体人間観から永遠の生命観へ
人間は肉体身だという観念をいちはやく、超えなければ、人類は必ず滅びてしまうからなのです。何故ならば、相対界に住んでいる限りは争いはつきぬし、永遠の生命から離れた人間界は、その想念の通り、限りある年限で終ってしまうからなのです。人間はどうしても、肉体身という限りある人間観でいてはならないのです。肉体人間観では、自己を滅ぼすと同時に地球人類をも、永遠の生命から切り離してしまうことになって、地球世界は滅亡してしまうのです。
自己を救い、地球人類を救うもの、それは、人間観の転換による他はありません。有限の世界観から無限の世界観に、肉体人間観から永遠の生命の人間観に、地球人類の心を向け変えなければいけないのです。
自分だけが善ければよい、自国だけがよければ、自民族だけが、というような想念は、すべて、肉体人間観からくるのであって、永遠の生命の流れとして、働きとしての人類なのだ、という観点に起った(たった)人々には、そうした利己的な想いはないのであります。
現在の日本国は、単なる一小国の日本ではありません。地球人類に永遠の生命を輝かせる為の大きな一つの役目を持った日本国なのであります。そうした真理を心身に感じた愛国心で事に当らないと、日本を四分五裂してしまいます。
人間は、神の分霊(わけみたま)であり、大生命の分生命であります。神はすなわち大生命であり、神の子人間すなわち分生命であります。宇宙に充ち充ちている生命の光が、お互に交流し合い和合し合って、神の大交響楽が、この地球界にも誤りなく演奏せられるのであります。
七十年八十年で死んでしまうような肉体人間観では、この神のオーケストラの素晴らしい大光明に接することはできません。大神様は現在各守護神と分れ、そしてまた、救世の大光明として、一つの働きに結集され、地球人類に永遠の生命を輝かし出そうとしておられるのです。
私たちの世界平和の祈りは、こうした大神様のみ心の下にはじめられた祈りなのです。
病気も不幸も災難も、自他の想念行為の誤りも、みんな、神のみ心を離れていた想いの消えてゆく姿として、改めて神のみ心に感謝しつつ、世界平和の祈りの大光明の中に入れてしまうのです。そこに自ずから新しい生命観が湧きあがり、知らぬ間に、肉体人間観を永遠の生命観に切り替え、各自の本心が自然と開発されてゆき、日常生活がそのまま生き生きとしてくるという、最も容易なる世界人類救済の道がひらかれてゆくのであります。
生命の流れを滞らせてはならぬ
生命の流れというものは、滞(とどこう)らせてはいけない。生命の流れが滞るところに病気や不幸や災難が現われてくるのです。生命の流れを滞らせぬためには、兎や角想い迷い、心を痛めつけることが一番いけない。それは善悪にかかわらずいけないのです。そうした生命の流れをとどこうらせる想念行為が、ひいては世界人類の運命を悪化させることになってしまうのです。
この世の善悪に把われて、生命の働きを損ねては、折角その行為が善意から生れたものでも、マイナス面の動きとなってしまうのです。老子の在り方を観ていると、実に真の生き方がよく判ります。自由無礙にして無為、老子の存在には、只感嘆の声あるのみです。
こうしよう、ああしよう、と自分の頭脳で思っているうちは、たいしたことは出来ない。といっても、善いことをしようと思ってすることは、しようとも思わない連中より、はるかに善いにはきまっていますが、しかし、その善が宇宙の運行の、絶対善から観ると、全く小さな小さな善ということになります。
ですから、自分の頭脳でやろうと思った善行為を、もう一度、神のみ心の中にお還えしして、世界平和の祈りの中から、今度は自然に出てくる善行為にしてゆく、という方法にすると、必ずその人の行為が生きてくると思います。
自分の頭脳だけで考えた善行為は、一方では成程善いことだと思われても、一方からは反対の眼でみられるかも知れないのです。自分の頭脳で考える想いを、一度祈り言を通して神様のみ心の中に入れ切ってしまうと、同じことをやるにしても、神我一体の行為として、右をも左をも、誰をも生かし、宇宙運行の大きな流れに沿った善行為となってくるのであります。
真の自由人
思想上の行為などは、尚更そうでありまして、自分たちが良し、とする思想が、他のグループから悪し、とみられることは往々あるのです。ですから、単なる肉体頭脳の善悪観というものは、危なっかしいものなのです。
日蓮上人など、その人自身は立派な人でありながら、あまり極端に他宗を罵った為に、その想念の流れだけを現在の頭の悪い人たちが受け取って、他宗を罵詈罵倒して、自宗に信者を引き入れようとしています。宗教とは大調和することが最大の目的なのに、その最も根本の目的に全く沿わない教えにされてしまっては、霊界の日蓮上人も困り切っていることでありましょう。
同じようなことは中国の孔子の場合にもいえます。
孔子の説いた教えを、その型通りに当てはめようとした人々の頑迷固陋(がんめいころう)さは、生命の流れの自由自在性を縛ってしまって、型にはまった不自由なやり切れないような人間をつくり出してしまったこともあります。
そこで老子のように、道に把われてもいけない、名に把われてもいけない、すべての把われから自らを解放せよ、といいたくなるのです。この自由性は、心の世界の自由性でありまして、形の世界だけの自由を叫んだとて、真の自由を得ることはできないのです。この点、現代の自由主義者というのと、老子などの自由無礙とは全く違ったものなのです。
如何なる形の世界に住んでいても、心は自由自在というのが、悟りの根本なのでありますから、どうしても、肉体観を解脱しなければ、真の自由人になることはできないのです。
実際この肉体というものは、無くてはこの世で用がたりないけれど、こうしてここに現われていると、何かと面倒なことの多いものです。私など、私の肉体などというものは、私個人としては無い方が実に気楽でよいようなものですが、この肉体が無いと、世界平和の祈りのリーダーシップがとれないので、世界平和の祈りの運動の中心の形として、ここに存在しているわけなのであります。
形の世界のことばかりに心を把われていますと、肉体身の名ということを大事なように思い、肉体身の名声を挙げようと、汲々としていることになるのです。肉体身の名がいくら挙がっても、その実が伴わなければ何にもなりません。実があって名が挙がらないのは結構ですが、名だけ挙がって実がないと、当人にとっても、その周囲にとっても、そのやりくりに困惑しつくすことになるのです。
そういう人やそういう会を私は沢山知っております。いたずらに会員を増やし、やたらに大きな建物を建てても、その中心者の実力がなかったら、いつも心はやりくり算段で明るむ時がないことと思います。
誰にも天命がある
人間には天から与えられた定まった天命というものがあります。どんなに努力しても、どんな方法をとっても、その天命以上の行為をすることはできません。天命以上の仕事をしたように見せようとすると、自ずからそれが虚勢となり虚飾となって、そこに嘘の生活がくりひろげられてゆきます。嘘が嘘を呼び自分で自分の心をがんじがらめに縛ってしまい、ますます虚勢を張るようになってしまいます。
有名になればなる程、身をつつしみ、謙虚な心にならないと、人間は自然と駄目になってしまうものなのです。私など有名になろうと思ったこともないし、人にあがめられる生活をしようと思ったこともない。只、世界人類の平和の為に、私の生命をおつかい下さいと願って、神様に生命を投げ出しただけで、そこから現在の世界平和の祈りの運動がはじまっているのであります。
ですから、神様の方から自然と行われてくることを、真直ぐに受けて、日々の行為をしているわけなのです。
聖ケ丘の土地も道場も、最も自然な形で、無理なく与えられ、集ってくる人たちも自然と集ってきて、自然と立派になってきているのであります。私はただ、自然に素直に明るく道を行じていればそれでよいので、こんな気楽なことはないのです。すべては救世の大光明の素晴らしい働きかけがやって下さる。私はその大光明のみ光りの動きのままに、この現われの肉体身を動かしていればよいわけで、神様の方で、お前は救世主だといえば、それでもよく、もうこれまでだ、といえば、それでもよし、といたって呑気なものなのです。
私の中には私という個我は全くないので、神様だけが住んでいらっしゃるのです。神々の集合所、即ち五井昌久というわけです。ですから、私は世界平和だけを心として生きていればよいわけですが、もうそれさえもなく、只無心に明るく、在るがままに生きているのであります。私の天命が完うされることは、そのまま世界人類が平和になることだ、と大確信を神様の方から持たされるわけです。
私が世界平和の祈りの中で、私達の天命が完うされますように、と唱えるようにしているのは、すべての人々の天命が完うされることと、世界人類が平和になることとは、全く一つのことだからであります。
日本の天命が米国の天命が、ソ連の天命が完うされますように、と祈ってもよいわけですが、それでは面倒なので、世界人類が平和でありますように、と祈り、私達の天命が完うされますように、と祈っているわけです。
世界平和の祈り一念に結集しよう
今や救世の大天使群は、その力を重点的に地球世界の平和達成のために行使しようとしています。時はいよいよ熟してきています。あらゆる宗派、あらゆる集会、それぞれ種々の考え方もあるでしょうが、世界人類の平和を念願する想いは全く一つだと思います。小さな枝葉のつまらぬ感情をさらりと捨てて、世界平和の祈り一念に結集しようではありませんか。くだらぬ枝葉のごたごたをいっている間に、人類の運命はずるずると破滅の方向にひきずられていってしまいます。
現在の人々が為すべきことは唯一つ、世界人類が平和になりますように、という祈りだけなのであります。世界人類が平和でありますように、世界人類が平和でありますように、と、私は只、それだけをこの頁一杯に書きつづりたいだけなのです。
皆さんの持っている肉体生活の利害関係に対する関心も業生の面からみれば、よく判ります。判るからといって、その考えはごもっともと同意ばかりはしていられません。業生の生活に同意していたのでは、世界人類は業生の波に呑まれて滅亡し去ってしまいます。
人によると、米国もソ連も、原水爆を使えば自分の国も危ないということをよく知っているから、決して原水爆戦争は起らない、といっていますが、そんな安易な考えはとんでもないことで、何度びもそういう危険な状態を通ってきているのです。考えてごらんなさい。米国の哨戒機はみな原爆を積んで飛行しているのですよ。一寸指令が誤っても原爆は落ちるのです。人間の頭は兎角ぼうっとなりやすいものなのです。
ですから、私たちは世界平和の祈りによって、業(カルマ)の波動を光の波動に変えてしまう運動をしているのです。この世はすべて波動の世界なのです。争いの波動を光明波動にすっかり切り替えてしまわなければ、世界は平和にはならないのです。世界平和を世界がこぞって祈る時、瞬時にして、この地球世界は平和の様相を呈してくるのです。その先きがけの私たちの世界平和の祈りなのです。世界を光明波動一元にするために、すべての肉体身にまつわる想念を、世界平和の祈りの中に投入しつくして生活してゆきましょう。それが、あなたを救い、世界人類を同時に救う唯一無二の方法なのであります。
五井昌久 『神は沈黙していない』より抜粋
*****
白光真宏会 公式ホームページ